2022年2月27日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第76回「ヨハネの黙示録11章1節」
(17/3/5)(その1)

1節「それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。
『立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。』

 新しいセクションに入りましたが、どのようなセクションなのか、それを明
らかにするためにも、復習をいたしましょう。
 見者ヨハネが初めて、預言者として召命を受けた場面から始まります。
見者ヨハネには、小さな巻物が与えられました。
「それは、あなたの腹に苦いが、口には蜜のように甘い。」と言われて、食べ
たところ、本当に、口には蜜のように甘かったが、食べると、彼の腹は苦くな
りました。
 ところが、見者ヨハネには、その前に、巻物の中身に書いてあることをする
前に、伝える前に、別に、預言者としてしなければならないことがあると言わ
れたのです。
 7つの封印によって閉じられた巻物の中身全部について預言しなければなら
ないのです。そして、まだ第7の封印の最後の、第7のラッパの部分が残ってい
るのです。その使命にとりあえず戻りなさい、と言うのです。その指示に従う
に当たり、注意事項が与えられました。11節です。「すると、わたしにこう語
りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、
王たちについて、再び預言しなければならない。
 まず「民族、国民、言葉の違う民、」に伝えねばなりません。
「預言者」とは、本来はイスラエルの民に神の言葉を伝える者であったのに、
なぜここでは、世界の民にも伝えねばならないのでしょうか。
 「民族、国民、言葉の違う民、」は世界の民族という意味を、3つの語で言
い換えたともいえますが、最初の「ラオス」という語は、普通はイスラエル
の民を表わす言葉、次の「エスノス」は、本来は異邦人、すなわちギリシア人
(ギリシア語を話す人)を表わす言葉、そして最後の「グローサ」は、 (諸)
言語を指す意味で、この三つを並べた、ということは、救いがイスラエルから
始まって、世界全体へ広まって行った、という考え方が前提にあります。そこ
には、世界の終末についての預言であるので、預言は、イスラエルの民に止ま
らず、世界の民に向かってなされねばならない、という事情があります。
 更に、ここでは、それに「王たち」が付け加えられています。
黙示録では特に「地上の王たち」と言う表現で(17:18)、この世の支配者のこ
とを言います。そして、特に、17:10~においては、明らかにローマ皇帝のこと
をさしています。
 そこには、特にキリスト教の、特にパウロの異邦人伝道においても、ローマ
と、ローマの政治権力とぶつからざるを得なかった、と言う事情があったこと
を忘れてはなりません。
 パウロがいわゆる「第二伝道旅行」以後確立してきた「異邦人伝道」の原則
によれば、主イエスを信じる信仰へと導くこと、を目的としつつ、偶像礼拝か
らの解放を最大のテーマとして、しかし、伝道手続はどうであったか、と言う
と、「あくまでも『ローマの法』に則って」行われてきました。しかし、それ
が、「迫害」という形で対峙せざるを得ない状況になって来たのです。
 ローマの権力への裁きも預言者の預言の対象とせざるを得ない時代となって
来た、と言うことです。
 以上の本筋の預言はもうしばらく続くとして、あの見者ヨハネに与えられた、
小さな巻物が気になります。「腹に苦いが、口には蜜のように甘い。」と言わ
れたその中身は何だったのでしょうか。その内容が、あるいは、その内容その
ものではないとしても、その主旨が、11章の1節~13節で明らかとされます。
今日はその第1回目です。

1節「それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。
『立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。』」

 さあ、むつかしい話になりました。心していきましょう。
「わたし」と書いてありますので、原文は、動詞が一人称単数である、というだ
けですが、とは言え、見者ヨハネ自身の体験です。(もちろん幻の中でですが。)

(この項、続く)



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