2022年2月6日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第74回「ヨハネの黙示録10章9〜10節」
(17/2/19)(その2)
(承前)

9〜10節「そこで、天使のところへ行き、その小さな巻物をください」と言った。
すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あな
たの腹に苦いが、口には蜜のように甘い。」わたしは、その小さな巻物を天使
の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、
食べると、私の腹は苦くなった。」

 そもそも巻物を食べられるか、という問題については、先週触れました。も
ちろん本当に食べられるわけではありません。しかし、食べてみて味がどうだ、
という形で、その内容を象徴的に表現するのです。それでは、その味はどう
だったのでしょうか。神の言葉はおいしいものだったのでしょうか。
 まず、見者ヨハネ以外で、ただ一人巻物を食べた経験のあるエゼキエルの場
合です。
 エゼキエル書3:1〜4「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあ
るものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』
わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて言われた。『人の子
よ、私が与える巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、
それは蜜のように口に甘かった。」
 この表現を見ると、単においしいものであったように思えるかもしれません。
なぜなら、「乳と蜜との流れる地」と言うのは、神がイスラエルに与える、と
約束したカナンの地の代名詞でして、出エジプト記からヨシュア記に渡って20
回以上も登場する言葉だからです。「蜜のように口に甘かった」と言うことは、
これ以上の喜びはない、至福の状態を表わしております。
 神の言葉はかくのごとく、「とにもかくにも心地よいもの」なのでしょうか。
But、黄信号!
旧約聖書の中に次のような言葉があることも忘れてはなりません。
箴言5:3「よその女の唇は蜜を滴らせ、その口は油よりも滑らかだ。だがや
がて、苦よもぎよりも苦くなり、両刃の剣のように鋭くなる。」
 その意味するところは、もう皆さまにはご説明する必要はございませんで
しょう。蜜の悦楽、甘美の裏に、「苦よもぎ」死に至る病が隠れていることも
ある、という旧約の詩人の知恵です。
 まさにそのとおりでして、エゼキエルの「蜜のように口に甘かった」はアイ
ロニーだ、と受け止める人もいる。が、エゼキエルの時代には、アイロニーで
済んだのです。まだ、世の末、終末ではありませんから。
 しかし、見者ヨハネの時代になると、「あなたの腹に苦いが、口には蜜のよ
うに甘い。」ないしは「口には蜜のように甘かったが、食べると、私の腹は苦
くなった。」と違う表現で2度も繰り返されるようになりました。預言すべき
神の言葉は麗しく、喜ばしいが、そこには必ず(死に至る)苦みが伴っている、
と言うのです。
 「腹」と訳されている語、「コイリア」と言いいますが、新約で21回ないし、
22回使われている語です。ルカによる福音書では「子宮」の意味で頻繁に
(7回)使われていますが、「ハラワタ」という訳が最も適切である。お腹の
中の髄の髄に本当に堪えた、という意味です。「苦い」は先ほども説明しまし
たとおり、「死に至る」の意です。アイロニーとか隠喩ではなく、必ずそうな
る、と言っているのです。
 エゼキエルと見者ヨハネの差はどこから来るのか。それは、今見者ヨハネが
関わりつつある世界は、「世の(本当の)終わり」だからです。神の使命に必
ず「腹の髄に堪える」苦しみが伴う、と言っているのです。むしろ、苦しむた
めに召された、と言ってもよい。なぜなら、世の末には、堕天使軍団との戦い
が待っているのですから。
 そんな召命いやだ、と思うかもしれません。しかし、だれかがそれを担うこ
とによって初めて、神の救いの時までの時間が縮まるのではないでしょうか。
私たちも覚悟を決めて臨みたいものです。

(この項、完)



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