2021年12月19日
〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕
第71回「ヨハネの黙示録10章1〜4節」
(17/1/29)(その1)
10:1〜4「わたしはまた、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天か
ら下って来るのを見た。頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱
のようであり、手には開いた小さな巻物を持っていた。そして、右足で海を、
左足で地を踏まえて、獅子がほえるような大声で叫んだ。天使が叫んだとき、
7つの雷がそれぞれの声で語った。7つの雷が語ったとき、わたしは書き留め
ようとした。すると、天から声があって、「7つの雷が語ったことは秘めてお
け。それを書き留めてはいけない」と言うのが聞こえた。」
先週のところで、第二の災いが大体終わりました。
どんな結果がもたらされたのか、その点のみ振り返っておきたい、と思います。
第六の天使がラッパを吹くことによって始まった災い、実質的には第二の災い
は、もともとは、殉教者の怨念(を晴らす)ことから始まった災いでした。し
かし、結果したことは、人類の3分の1の死と、二億に及ぶ馬と騎乗者の屍で
した。空しいものです。
しかも、この出来事は、ユーフラテス川のほとりにつながれていた堕天使が
引き起こしたものでした。
この天使たちは、「その年、その月、その日、その時間のために用意されて
いたのである(15節)」と言われているように、この日のために、人類を殺すた
めに、満を持していました。
そこで、この堕天使どもが仕切って、先ほど述べた「殺し馬」軍団と言うよ
りは、「殺し馬」の群れが、地球上を蹂躙し、全人類の3分の1が命を失ったの
です。
しかし、4人の「堕天使」が、この「殺し馬」の群れをどのようにして仕
切ったのか、私たちは、馬に騎乗していたのではないか、とか、軍団のリーダー
だったのではないか、とか、考えてしまいがちですが、なにしろ、まともな天
使ではなく「堕天使」ですので、その「殺し馬」の群れさえもだまし討ちにし、
用が済んだら200,000,000の騎乗者もろとも、皆殺しにした、と考えられます。
エゼキエル書39:1以下のゴグの運命は、そのことを類推させます。そして、
「堕天使」は生き延びるのです。
それでは、それでも生き残った人類の最後の三分の二がどうしたか、20節か
ら21節にあるごとく「これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分
の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、
木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。…また彼らは人を殺
すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。」のです。
二億もの「殺し馬」の群れに地球上を蹂躙され、自分の隣人が次々と死んで
いくのを目の当たりにしたとしたら、そこにいあわせた人々は、手を合わせて、
「助けてください。悔い改めますから、助けてください。」と懇願したのでは
ないか、人々は、何の頼りにもならない偶像礼拝を直ちにやめ、真の神に立ち
帰ったのではないか、と思うのですが、それがそうならなかったのです。
なぜか、それは、この災害には堕天使が絡んでいたからです。たとえ自分が
悪かったとしても、そのことを自覚していたとしても、堕天使どもに人類の3分
の1を殺されたとすると、そして、その堕天使どもが、二億もの怪物と騎乗者
の屍を造り出したのを目の当たりにしたとしたら、いくら悪人どもであったと
しても、「仕方ない。我々はしたことの報いを受けているのだ」とは思わない
でしょう。反省するどころか、堕天使どもと、そしてわけのわからないひどい
動物を遣わした神に対して怒りをぶちまけ、悔い改めるどころか、神が最も嫌
われる「偶像礼拝」をますます熱心にし始めるのではないでしょうか。
そして、中には、「神にこんな嫌な仕事を押し付けられて」と堕天使に同情
する輩、(堕)天使礼拝に走る輩さえも出てくる(来た)とも考えられます。
そのような経過が黙示録に書かれているわけではありません。しかし、現実
に、教会紛争を経験した者としては、「そうなったに違いない」としか思えな
いくらい、ありありとその経過が見えてくるのです。
こうして、裁きも終盤に近付いて見えてきたことは、最後の審判においてな
されていることは、「黒白はっきり」と言うようなことではなく、今、私たち
がそうであるのと全く同じ、混乱と混迷、そして暴力の究極の姿だったのです。
「そこまでは行きたくない」と思う、「それだけはいやだ」と思う、究極の姿
だったのです。
(この項、続く)
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