2021年12月12日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第70回「ヨハネの黙示録9章20〜21節」
(17/1/22)(その2)
(承前)

 今度の災いは、実質的に災いと言える最初のものでありました。8:11を除
いて、初めて、人間の命が失われました。いよいよ、終末の本当の滅びが始
まったのかな、と思わさせられます。しかし、刻印は押されていない、残され
た人々に神は何を求めておられるのでしょうか。刻印を押されていない人はあ
きらめるしかないのでしょうか。
 それが実は悔い改めであったことがここでわかるのです。私は、第一の封印
の開封から、第五の天使のラッパ吹きまで、「悔い改め」ということを言い続
けてきました。しかし、実はその間、「悔い改め」という語は一度も出てきま
せんでした。黙示録で「悔い改め(メタノイア)」という語は3:3以降ここ
まで、一度も出ていません。しかし、実は、神から求められて続けているのが
「悔い改め(メタノイア)」であったことが、20節、そして21節から逆に分
かったのです。
 「悔い改め(メタノイア)」とは、「エク(from)」という前置詞で受ける
ことから分かるように、方向転換をすることです。神は何から何への方向転換
を求めておられるのでしょうか。それが、偶像礼拝から、神に心を向けるよう
になることを求めておられることであったことが、20節から分かるのです。
 それでは、そういう悔い改めを人類はしたかどうか、順に見てまいりましょう。

20節「これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったも
のについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで
造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、
聞くことも、歩くこともできないものである。」

 二億もの「殺し馬」の群れに地球上を蹂躙され、自分の隣人が次々と死んで
いくのを目の当たりにしたとしたら、そこにいあわせた人々は、これは想像で
すが、手を合わせて、「助けてください。悔い改めますから、助けてください。」
と懇願したのではないか、私には、そのように見えてしまうのですが、皆さま
どうでしょうか。
 もしそうだとしたら、この恐ろしい災害がひとまず過ぎ去ったのち、人々は、
何の頼りにもならない偶像礼拝を直ちにやめ、真の神に立ち帰ったはずです。
 それがそうならなかった、と言うのが、今日のテキスト最大の謎です。
その理由は何か。それは、この災害に「堕天使」が絡んでいたからです。
先週申し上げたように、この災害は、人類の、悪を持って悪を制するという悪
の歴史を鑑みると、それはそうだよね、と思わざるを得ない、必然のものです。
しかし、その悪の懲らしめに堕天使が働いたとなると、反省よりも反発がはた
らいてしまったのではないでしょうか。本当は自分が悪いのに、そのことが受
け入れられなくなってしまうのです。そのことを受け入れられないとき、人は、
災害の原因を神に押し付け、「かわいそうな天使」、本当は人間以上の悪人な
のですが、に同情しさえする。神ではなく、天使礼拝を始めるのです。それが
20節で言う「悪霊」です。
 そこで、この災厄を機に、偶像礼拝は偶像礼拝でも、今までとは全く違う、
よけいたちの悪い「偶像礼拝」に踏み込んでしまうのではないでしょうか。そ
れが、21節で言う「まじない」です。人々は「堕天使」を拝むようになってし
まうのです。
 その事態の認識はテキストにも表れており、21節では、偶像礼拝の対象に普
通は「木、石…」があげられるだけなのに、(第Tエノク99:7)、「悪霊(ダ
イモニオン)」が加えられるリストが採用されている。また、十戒の悪徳表に
はない「魔術(ファルマコーン)」が加えられることとなりました。
 この災害の後、人々は悔い改めるどころか、ますます「偶像礼拝」、それも、
物への礼拝ではなく、「堕天使礼拝」に走るようになっていったのです。本当
の滅びはまだこれからです。

(この項、完)



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