2021年10月17日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第66回「ヨハネの黙示録9章1〜6節」
(16/12/18)(その2)(承前)

 このことを、「私たち」はいわゆる「計画停電」によって体験しました。し
かし、私たちはファラオと同じように悔い改めなかった。ということは、この
終末の幻も、私たちの悔い改めを求めるものの範囲内である、ということです。
 こうして、第七の封印が解かれたにも拘わらず、第四のラッパ吹きまでの災
厄は、一度だけ出ましたが、原則として死者が出ることもなく、結局悔い改め
を求める者でありました。神は、それだけ寛容、というよりは、人間自らの悔
い改めを待っておられる方なのです。
 しかし、先週この節には触れることができなかったのですが、8章の最後、
13節において、13節「また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声
でこう言うのが聞こえた。『不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。な
お三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。』」と、不吉な出来
事が予告されました。
 今日から第5のラッパ吹きが始まりますが、本当に「不吉な出来事」が始ま
るのかどうか、注目してまいりたい、と思います。
 第5の天使がラッパを吹きました。すると、「一つの星が天から地上へ落ち
て来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、そ
れが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上
り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。そして、煙の中から、いなご
の群れが地上へ出てきた。」
 度々言っていますように、黙示録では、星は天使です。そして本来は、教会
の守り神でした。ところが、星にも、つまり天使にもいろいろな星、いろいろ
な天使があるらしい、ということが、この章から分かってくるのです。この星、
天使がどういう星、天使であるのか、そこも注目しながら、物語の先を読んで
まいりましょう。
 今はその問題はともかく、この天使についての結論は後で触れるとして、物
語の先を追っていきますと、その星、天使が天から落ちて来て、ここで、この
天使が天から追放されて落ちてきたと考えるか、あるいは、神の命令で、下の
方に急降下してきただけなのかによって、この天使がいかなる存在であるか、
変わってくるのですが、ともかく急降下して来て、そして、その天使に、「底
なしの淵」に通じる穴(原文を厳密に訳すと「井戸」です)を開く鍵が与えら
れていて、そして、その鍵を開くと、煙が出て来て、その煙の中から、いなご
の群れが出てきた、というのです。
 何かSF映画を見ているようですが、ともかくそうなのです。
で、「底なしの淵」と訳されている「アビュース」が何か、が問題です。
「アビュース」は、実はヘブライ語の「ティホーム」の翻訳で、日本語訳(旧
約)聖書では「深淵」と訳されています。
 創世記1章2節を見ていただければ分かるように、神さまが天地を創造され
る前、地は何もなかったのではなく、「深淵」が覆っていました。それは、暗
い海のようなもので、天地創造と共に、地下におしこめられていました
(詩編33:7)が、その中に、ユダヤ教では、この「アビュース」が、堕落し
た天使や、デーモン(小悪魔)が、閉じ込められるところと考えられるように
なってきました。最終的な神の罰なのか、あるいは、待機点であるのか、につ
いては、考え方は分かれますが、後期ユダヤ教においては、これらの存在がい
る所と考えられていたのです。それは、本来は、(後に混同されるようになり
ますが)人が罰を受けて最終的に処分される所、「ゲヘナ」とは区別されてい
ました。
 よって、天から急降下してきた天使、星は、これらの堕落した天使や、
デーモン(小悪魔)を解き放つために、天から急降下してきたのでした。
となると、この天使が神の命令で、下の方に急降下してきたのか、あるいは天
から追放されて落ちてきたのか、つまり、この落ちてきた天使がまともな天使
なのか、あるいは堕天使なのか、という問題については、明らかに堕天使であ
る、と考えられます。
 つまり、「アビュース」から出てきたのは、神から「人を苦しめる」権限を
与えられた(本来はよい)者ではなく、本来は神に従う者であったにも拘わら
ず、神に背き、堕落し、すでに罰を受けた存在であったのです。神は、実質的
な終末の刑罰の第一として、「堕天使」どもに自由に活躍できる5カ月の期間
を与えられたのです。
 つらいですね。7つの教会のところで散々学んだように、教会を苦しめてい
るのは、外からの敵であるよりも、むしろ内紛でした。もう一度、終わりの時
になると、その「人」たちが、再出現して、再び苦しめるというのですから。
 しかし、希望はあります。「額に神の刻印を押されている人は害を受けない」
というのです。「額に神の刻印を押されている人」とは、7:1以下では、「イ
スラエル」のことでした。しかし、歴史上のイスラエルにおいては、外された
部族もあると同時に、新たに加えられた部族もあるように、私たちも、何とか、
神に従う歩みをしようと心がけるならば、何とか、耐えられるかもしれません。
 堪えて、耐えて、耐えて、耐えて、救いを待ちましょう。クリスマスを前に、
これが、これだけが、私たちに残された唯一の道です。

(この項完)



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