2021年9月12日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第64回「ヨハネの黙示録8章10〜11節」
(16/12/4)(その1)

10〜11節「第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大
きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源に落ちた。
この星の名は、「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が苦よもぎのように苦く
なって、そのために多くの人が死んだ。」

 今日は、第三の天使がラッパを吹いて災害が起こる場面です。どのような災
害で、それは、第一の災害、第二の災害とどのように違うのか、検証してまい
りたい、と思います。
 「第一のラッパ」の音と共に、どのような滅びがもたらされたのか、それは
雹でした。
 雹と言えば、出エジプトの際、神がファラオを始めとするエジプトに下され
た災厄ですが、今度は、終末の裁きでありますから、雹は雹でも並みの雹では
ありません。「血の混じった雹と火」でした。ところが、この雹をしても、地
は全滅してしまわない。
 滅びと言っても、ファラオの場合と同じように、神は心が 動くことを求め
ておられるのです。全滅まではまだまだなのです。と言うことは、「終末の滅
び」も、悔い改めの延長線上、それが本当に尽きたところにある、ということ
です。
 次に、第二の天使のラッパ吹きによって引き起こされた災害と、その結果起
こったことと言えば、「火で燃えている大きな山のようなもの」が海に投げ込
まれ、海の三分の一が血に変わり、また、海に住む生き物の三分の一は死に、
船という船の三分の一が壊される、という事態でした。
 ここでまず問題なのは、「火で燃えている大きな山のようなもの」とは何か、
ということです。火山とする説のほかに、隕石と考える説もあります。「火山
とする説」をとる人は、エレミヤ書51:25で、バビロンが「滅びの山」と呼ば
れていることを根拠と考えます。バビロンは神に敵対する者として、黙示録の
中で(17〜18章)やがて滅ぼされますが、それが、それの分身がここで神(天
使)によって海に投げ込まれ、災いを生じた、と考えます。一方、「隕石と考
える説」をとる人は、私たちの持っている聖書には「続編つき」においても収
録されてはいませんけれども、第一エノク書の18:13等々で、星が「燃えるよ
うな山」とされていることを根拠とします。
 どちらも根拠のある説で、私たちは、どちらだ、と考えてもよい、と思うの
ですが、私は、これを「隕石と考える説」の方が、より深刻であり、ここは、
より深刻に受け止めた方が良い、と考えています。
 なぜなら、「隕石と考える説」を取ると、すでに学びましたように、「星」
は黙示録では天使そのものであり、そして、1:20にあるごとく、教会の守り
神でさえありますから、教会の守り神である天使が、その身の一部を削って、
神に敵対する地にとびこんでまでして引き起こした災害が、第二の災害である、
ということになります。天使は、地の堕落にそうせざるを得ないまでに傷んで
いたのです。
 第二の災害は、天使が身を削って飛び込むほど、地の堕落が深刻であること
を示すこととなりました。
 そこで、第三のラッパによって引き起こされた災厄です。それは何だったで
しょうか。

10〜11節「第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大
きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源に落ちた。
この星の名は、「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が苦よもぎのように苦く
なって、そのために多くの人が死んだ。」

 天から星が落ちてくる災厄で、今度は、川の水が飲めなくなる、そういう災
厄でした。
 一見すると、第二の災厄の応用編、あるいは変形で、星が、第二の災厄と
違って、今度は川に落ちて来て、大きな災厄をもたらした話という風に見える
かもしれません。
 しかし、丁寧に見ていくと、これは、第二の災厄とは全く異なる災厄であり、
そこには、全く別のメッセージが込められていることが分かるのです。

(この項、続く)



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