2021年9月5日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第63回「ヨハネの黙示録8章8〜9節」
(16/11/27)(その2)
(承前)

 まず、起こった災害です。
「第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなも
のが、海に投げ入れられた。」
 この第二の災いにつきましては、冒頭から大きな問題に直面することとなり
ました。
 「火で燃えている大きな山のようなもの」とは何か、という問題です。皆様
は、何のことが言われているのだ、と思われますでしょうか。皆様の中には、
おそらく、三宅島の雄山の噴火や、海中火山の活動による新島の出現などから、
火山から流れ出る溶岩流のようなものを想像される方が多くいらっしゃるので
はないでしょうか。
 果たしてそれでいいのか。
第一の災いについては、出エジプトの際にエジプトに下された災いが、その予
兆であったわけですが、出エジプトの際に、「火で燃えている大きな山のよう
なものが、海に投げ入れられ」る、という災いはありませんでした。
 それではこれはいったい何なのか。
実は、旧約聖書や、旧約聖書思想を発展させたユダヤ教文献などを根拠として、
火山とする説のほかに、隕石と考える説もあるのです。
 「火山とする説」をとる人は、エレミヤ書51:25で、バビロンが「滅びの山」
と呼ばれていることを根拠と考えます。バビロンは神に敵対する者として、黙
示録の中で(17〜18章)やがて滅ぼされますが、それが、それの分身がここで
神(天使)によって海に投げ込まれ、災いを生じた、と考えます。
 一方、「隕石と考える説」をとる人は、私たちの持っている聖書には「続編
つき」においても収録されてはいませんけれども、第一エノク書の18:13等々で、
星が「燃えるような山」とされていることを根拠とします。
 どちらも根拠のある説で、私たちは、どちらだ、と考えてもよい、と思うの
ですが、私は、これを「隕石と考える説」の方が、より深刻であり、ここは、
より深刻に受け止めた方が良い、と考えています。
 なぜなら、もし、「火山とする説」を取るとすると、それはあくまでも地球
上での自然現象の一つであって、第一の災いの雹と同じだからです。
 その災害の被害がいかに甚大であったとしても、それをきっかけにして、悔
い改めを迫る以上の意味は持ちません。そして、出エジプトの時のエジプトの
ファラオは、雹の災害に際しては、結局は悔い改めなかったではありませんか。
 しかし、「隕石と考える説」を取ると、事態は全く変わってくる。
すでに学びましたように、「星」は黙示録では特別の意味を持っています。そ
れは、「星」は天使そのものであり、そして、1:20にあるごとく、教会の守
り神でさえあるのです。
 「隕石」ですから、そのかけら、一部でしかないかもしれませんが、「隕石
と考える説」を取ると、教会の守り神である天使が、その身の一部を削って、
神に敵対する地にとびこんでまでして引き起こした災害が、第二の災害である、
ということになるのではないでしょうか。天使は、地の堕落にそうせざるを得
ないまでに傷んでいたのです。
 しかしそれにもかかわらず、ここでの災害は、まだ「悔い改めを求める」範
囲内でした。
 9節「海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の
一は死に、船という船の三分の一が壊された。」
 本日の旧約書でお読みした、出エジプトの時と同じ出来事がおこりましたが、
それも、地の三分の一にとどまっています。
 そして、初めて、「船」という人的被害に至る可能性のある事態が報告され
ますが、「被害」そのものは報告されません。あくまでも、悔い改めの範囲を
逸脱してはいない、ということです。
 しかし、この第二の災いにおいて、私たちは、地の堕落は、天使が、身を犠
牲にしてまで、警告する事態に至っている、ということを認識すべきである、
と思います。

(この項、完)



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