2021年8月22日
〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕
第62回「ヨハネの黙示録8章6〜7節」
(16/11/20)(その2)
(承前)
7節「第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、
地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべ
ての青草も焼けてしまった。」
雹です。私はあまり経験したことがありませんけれども、日本では、特に夏
の終わりごろ、雷と共にこれが起こり、葉物はすっかりやられてしまいます。
もちろん、住宅などへの被害もあります。
しかし、自然現象としての雹はともかく、私たちは、出エジプトの際、神が
ファラオを始めとするエジプトに下された11の災いの中に、雹の災いがあった
ことを忘れてはならないのではないでしょうか。
神から召し出されたモーセは、奴隷として、重労働に、そして抑圧に苦しむ
民のために、「荒野で祭りを行う」、夏期休暇を取る、といったところですが、
それをファラオに交渉しに行ったところ、けんもほろろ、かえって労働がきつ
くなったその中で、神がなされた罰です。自然災害ですが、罰です。この雹は
厳しく、「野のあらゆる草が打たれ、野のすべての木を打ち砕いた、(25節)」
とあります。また、「亜麻と大麦は壊滅した(31節)」とあります。エジプトの
雹はすごいのでしょうか。しかしそれでも、雹はファラオの心を動かすための
ものでした。
しかし、残念ながら、雹では、ファラオの心は動かなかったのですが、最終
的には、「初子の死」という災い、神の罰によってファラオの心は動き、、出
エジプトの民は、解放を体験した、という体験を持っているのであります。
今度は、終末の裁きでありますから、雹は雹でも並みの雹ではありません。
「血の混じった雹と火」でした。雹が真っ赤になり、火が伴うことがあるのか、
と私たちは思いますが、そして「終末だから何が起こってもおかしくない」と
言ってしまえば身もふたもありませんが、現実に赤い雹が降ることはある。実
際、イタリアと南ヨーロッパでは、同じ現象が起きた、ということをある聖書
学者は報告しています。
しかし、見者ヨハネが見た雹はどのような雹だったのでしょうか。事実を踏
まえて想像しても、そこに焼失が起こった、ということは、想像を絶するとこ
ろがあるのであります。
ところが、この雹をしても、地は全滅してしまわない。火事は地上の三分の
一、木につても三分の一、草は全滅した、とありますが、むしろ、この「草は
全滅した」というテキストの方が、9:4との関連で、後の修正である、本来
はここも三分の一であった、とみなす学者もいるくらい。
これは一体どうしたことなのでしょうか。
いろいろな解釈が可能か、と思いますが、私はこう思います。滅びと言っても、
ファラオの場合と同じように、神は心が 動くことを求めておられるのです。
全滅まではまだまだなのです。神はそういうお方なのです。
と言うことは、「終末の滅び」も、悔い改めの延長線上、それが本当に尽き
たところにある、ということです。
すでにファラオで体験しているのですから、どうしたらよいか、それは私た
ちにとって明々白々です。心を変えればいのです。
あっ、そう言えば、まだ、ラッパを吹いているのは、まだ神御自身ではなく、
天使でした。神ご自身がラッパを吹かれないうちに、私たちは、今、適切な行
動をとりたいものです。
(この項、完)
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