2021年7月25日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第60回「ヨハネの黙示録7章13〜17節」その2
(16/10/16)(その2)
(承前)

16〜17節「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑
さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、
命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」

 用語の解説に入る前に、一つのエピソードをご紹介したい、と思います。
元住吉教会では、水曜日にハイデルベルク信仰問答を学ぶ会、祈祷会を行って
います。しかしながら、出席者はきわめて少なく、ごく一部の方に限られ、皆
さんの中でも出席したことのある方はごく一部でしょう。
 しかし、私は、それでも、できるだけ多くの方出席していただきたい、と頑
張ってきました。が、それでも私の力足らずで、ここのところ、特に夜の部は、
実は開店休業が続いてきています。
 先週も時間になってもどなたもいらっしゃらないので、「今日もためか」と
いうことで、閉店の準備をする前に、台所で柿ピーをたべていたところ、本当
に久しぶりの姉妹がひょこっといらっしゃったのです。しかも、彼女は、失礼
ながら大変にお腹を空かしている様子で、そこで、一緒に柿ピーを食べながら、
「我らの日用の糧を与えたまえ」というテーマで、学び、語りあう時を持つこ
とができたのです。
 実は、私は、これも「実は」なのですが、今の時代、開店休業が続く中、祈
祷会などというものは無意味なのではないか、その祈祷会で共に食す、などと
いうことは必要ないのではないか、という思いにとらわれつつありました。し
かし、その自分の傲慢な思いに気づき、悔い改めました。神が用意したもう天
国は、御前で共に分かちあいつつ食すこと、そのものだったのです。祈祷会で、
たまにしか開店できませんけれど、わずかのものを分かち合いつつ、祈り、食
すことは、み国の先取りをさせていただく恵みに与っていることだったのです。
 さて、そこで16節、17節の問題ですが、まず、16節〜17節の途中までですが、
は、ご覧になっていただければ分かるとおり、イザヤ書49:10とほとんど同じ
です。ここは、新共同訳聖書においては「シオンの回復」とタイトルがふられ
ているごとく、バビロン捕囚に囚われている人々が、カナンの回復を夢見た箇
所です。イザヤ書の著者にとっては、シオン、カナン地方の回復、地が豊かに
実り、作物が充ち溢れることこそが、来るべき神の国の慰めだったのです。
 しかし、黙示録の著者が、イザヤ書とほとんど同じ表現で、殉教者への慰め
を描いているとは、どういうことか。もちろん、イザヤ書と違って、「もはや
(エティ)」という表現を3度も使っている(新共同訳では一回に省略されて
しまっています)ことですとか、慰めを与える主体が「憐れみ深い方」から
「玉座の中央におられる小羊」に替わっている、という変化はありますが、内
容はほとんど同じとはどういうことなのでしょうか。
 それは、いつの時代においても、「天国は、カナンの回復だ」なのではなく、
イエス様が4,000人、5,000人の奇跡で示された「神の国の供食」こそが、天国
での慰めなのだ、という意味なのではないでしょうか。
 イスラエルの人々には、イザヤを通して、それがカナンの豊潤として先取り
されただけなのです。そして、教会は、聖餐式を通して、それを儀式的に先取
りしていますが、本当の供食は、神の国においてなされる、ということなので
す。
 この供食はもちろんすべての人に用意されていますが、殉教者には、先取り
されて、先に与えられる、しかも、「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわ
れるからである。」という慰め付きでです。
 苦労した者に、神は真っ先に報いられる、これが天国の供食なのです。

(この項、完)



(C)2001-2021 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.