2021年7月18日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第60回「ヨハネの黙示録7章13〜17節」その2
(16/10/16)(その1)

13〜17節「すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者
たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの
主よ、それはあなたがご存知です。」と答えると、長老はまた、わたしに言った。
『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたの
である。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕え
る。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らはもはや
飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことは
ない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神
が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。』」

 第六の封印の開封と共に、まだ、全封印の開封は終わっていないのですけれ
ど、つまり、終わりの終わりの時はまだなのですけれど、殉教者の大群衆が現
れました。
 この大群衆は、白い衣を着ていました。しかし、いずれにせよ、かなり、
「最後の審判」まで、押し詰まった状況の中で、殉教者に対して救いが、先取
りされた、のです。
 その救いとは何でしょうか。
それはまず第一には、(deliverance)、すなわち救出です。そして、殉教者
にとっての救出とは何か、と言えば、それは、殉教者が心から願っている復讐
が成し遂げられること、すなわち、迫害者がやっつけられること、です。神は、
しばしばその先取りを示しては下さいますが、この終わりの時に至って、完全
になさってくださったのです。
 そして、それは、同時に神の完全勝利でした。
そこで、天使たちも声を合わせての、「勝利の讃美」が生じたのです。
さて、殉教者たちに対する救い(救出)と、神の勝利が示されると、そこで初
めて、殉教者たちに対する、偽物ではない、「慰め」が示されることとなりま
す。
 どのような慰めが与えられたのか、それについて、前回から触れてまいりま
した。
 まず、ここで24人の長老が登場いたします。そこで、長老の一人の言ったこ
とですが、
 それは、『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って
白くした』者である、というものでした。
 2つのことが言われています。
一つは彼らが「大きな苦難を通って来た者」であるということです。
彼らは、殉教者です。過去に受けた殉教という苦難に対して、白い衣を与えら
れ、そして復活の命を先取りさせていただいたのです。もちろん、まだ「終わ
りの終わりの時」は来ていませんから、彼らにも、さらなる苦難があるかもし
れませんが、受けてきた苦難が評価されていることを忘れてはいけません。
 そこで、第二の問題です。彼らは「その衣を小羊の血で洗って白くした」と
言われています。これはいったいどういうことでしょうか。「血でもって洗った
ら、ますます汚れてしまうじゃん」といった表象上の疑問はともかくとして、
(犠牲の)血をもって、衣をきれいにする、という考え方は、既に旧約聖書に
ありました。(創世記49:9など、)
 で、その上で、「小羊の血」で洗う、とはどういうことか。まず考えられる
のは、「罪の清め」です。(ローマの信徒への手紙3:25など)殉教者と言え
ども、罪ある人間であることには変わりありませんから、キリストの血によって
罪ゆるされることがもちろん必要でしょう。
 しかし、彼らは、一般人であるばかりではなく、殉教者です。殉教者は、衣
を小羊の血、すなわちキリストの血で洗うことによって、何が与えられるのか、
それは、「聖化」なのです。彼らは、キリストの業に文字通り参与したのです
から、キリストと共に、神の子として、神に最も近くいることが許されるので
す。
 もっと具体的に言うと、邪魔されることなく、日夜礼拝をしている恵みが与
えられる、ということです。
 そして、その礼拝の恵みが、もっと具体的になにを指しているか、が今日の
ところで触れられていることです。

(この項、続く)



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