2021年7月4日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第59回「ヨハネの黙示録7章13〜17節」
(16/10/9)(その2)
(承前)

 そこで、長老の一人の言ったことですが、この「対話」について、自分で問
いを出しておいて、自分で答える、という変な「対話」だな、と思われたかも
しれません。しかし、これは、旧約聖書以来の、神が語られるときの「対話」
法なのです。たとえば、エレミヤ書1:11〜13など。神は、これから語ろうと
しておられることを分かっていて、聞き手に「何が見えるか(エレミヤ1:11、13)
とか、「だれか」、「どこから来たのか」(13節)と問われるのです。そして
「正解を示す」と言う形で託宣が告げられるのです。
 よって、ここでは、長老の言葉が神の言葉であり、神が、白い衣を与えられ
た殉教者たちを「どこから来た、どのような者であるか」について、どのよう
に認識しておられるか、を示す重要な1節となるのです。
 それは、『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って
白くした』者である、というものでした。
 2つのことが言われています。
一つは彼らが「大きな苦難を通って来た者」であるということです。日本語の
聖書では「来た」と過去のこととして訳してしまっていますが、(この点は協
会訳聖書も同じ)原文は、「来た」は現在形です。彼らは、過去に多くの苦難
を受けてきたばかりではなく、今も、これからも苦難を受け続けるという意味
なのでしょうか。
 一般人については、そう言えるかもしれません。しかし、彼らは、殉教者で
す。過去に受けた殉教という苦難に対して、白い衣を与えられ、そして復活の
命を先取りさせていただいたのです。もちろん、まだ「終わりの終わりの時」
は来ていませんから、彼らにも、さらなる苦難があるかもしれませんが、受け
てきた苦難が評価されていることを忘れてはいけません。
 そこで、第二の問題です。彼らは「その衣を小羊の血で洗って白くした」と
言われています。と言うことは、「と、神様に評価されています」ということ
です。
 これはいったいどういうことでしょうか。「血でもって洗ったら、ますます
汚れてしまうじゃん」といった表象上の疑問はともかくとして、(犠牲の)血
をもって、衣をきれいにする、という考え方は、既に旧約聖書にありました。
(創世記49:9など、なおここで「ぶどう」と訳されている原語はLXXでは
血です。)
 で、その上で、「小羊の血」で洗う、とはどういうことか。まず考えられる
のは、「罪の清め」です。(ローマの信徒への手紙3:25など)殉教者と言え
ども、罪ある人間であることには変わりありませんから、キリストの血によって
罪ゆるされることがもちろん必要でしょう。
 しかし、彼らは、一般人であるばかりではなくむ、殉教者です。殉教者は、
衣を小羊の血、すなわちキリストの血で洗うことによって、何が与えられるの
か、それは、「聖化」なのです。彼らは、キリストの業に文字通り参与したの
ですから、キリストと共に、神の子として、神に最も近くいることが許される
のです。
 付随的効果として、キリストと同じように迫害に耐える力が与えられる、と
言ったこともあるかもしれませんが、ともかく神に最も近くいることが許され
るのです。もっと具体的に言うと、邪魔されることなく、日夜礼拝をしている
恵みが与えられる、ということです。

15節「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。
玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。」

 「この者たちの上に幕屋を張る」とは、「いつも共におられる」ということ
です。
 せっかく殉教したのだから、もっと権力とか、名誉だとか、富だとかが与え
られるのではないか、と期待された方々には、「なあんだ」かもしれませんが、
殉教者に神の用意したもう幸せは、あくまでも、「神と共にいる幸せ」です。

(この項、完)



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