2021年6月13日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第57回「ヨハネの黙示録7章9〜10節」
(16/9/25)(その2)
(承前)

 さらに、もっと大きな問題として、エフライム族の欠落という問題がありま
す。これについては、皆様の中にもお気づきになられた方がいらっしゃるか、
と思いますが、これについては、王国分裂以降、北王国を支えてきた重要な部
族です。しかし、ヤロブアム王の「金の子牛事件(列王上13:28)」以来、歴
代の王たちは、申命記歴史家によって「主の目に悪とされることを行い、イス
ラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を離れなかった」との評価を
受け続けてきたのです。
 王家を出した部族でも、救いに与れるとは限らない、というメッセージがこ
こにはあります。救いは単に「救おう」という神のみ心による、ということで
す。
 その神のみ心は、それは、イエス・キリスト以後のことである、と考えられ
ますが、イスラエルの範囲を超えて、すべての民に及んでいる、というところ
から、次の出来事が始まります。

9節「この後、私が見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉が違
う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に
着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、」

 見者ヨハネが見る世界もだんだん面白くなってきました。
封印が開封され始めてから、2回目の「白い衣」を着た人の登場です。今度の
「白い衣を着た人」は何者なのでしょうか。
 ところで、そもそも「白い衣」とは何で、だれに与えられたものか、と言え
ば、それは、第5の封印の開封にまでさかのぼらねばなりません。
 第5の封印の開封の時、そこには天の祭壇の下の血の海に、犠牲の血の海に、
「成仏」できずにいる殉教者の魂がうごめいていました。
 その魂に、「復活の命の保証」として、先取りとして、与えられたのが、
「白い衣」だったのです。だとすると、「白い衣を着た人」とは、殉教者で、
「復活の命の保証」をされた、受けた人ということになります。そうすると、
殉教者で、まだ、「白い衣」を受け取っていない人がいたのでしょうか。
 そこで、私たちは、第5の封印の開封の時、「玉座に座っておられる方」が
言われたことばを思い出します。
 (即座の復讐を求める殉教者たちに向かって)「自分たちと同じように殺さ
れようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、
静かに待つように」と言われたのでした。これからも大量の殉教者が出る、と
いうことです。
 その「自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕で
ある者たち」がここ、第六の封印の開封において現れたのです。
 その人々は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉が違う民の中から集まった、
だれにも数えきれないほどの大群衆」ということですから、全世界、そして膨
大な数に及びますから、ここには、迫害は時代が進むにつれ、ますます激しく
なる、という悲観的見通しが述べられています。
 もちろん、幻のこの部分では、144,000人の時と同じく、時間的前後関係は
錯綜していますから、見者ヨハネが見た時点で、これだけの殉教者がいた、と
いうことではなく、「今」も出つつある、ということだろうと思われます。
 その「殉教者」にして、復活の命の保証を受けた者たちが、何をしているか、
と言えば、この段階に来ると、もはや「復讐」コールではなく、賛歌、讃美歌
を歌っていた、ということなのです。

10節「大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、
小羊とのものである。』」

 なぜでしょうか。もはや復讐はあきらめて趣味に走ったといことでしょうか。
そうではなくて、それは、「復讐」が成し遂げられた、その保証が与えられた
勝利の雄叫びだったのです。
 まず、殉教者には、救いが与えられねばなりません。
「救い(ソーテーリア)」とは、「救い主(ソーテール)」という言葉に関連
するように、「魂の救い」を指すこともあります。しかしここでは、そして黙
示録の3回の用法(7:10、12:10、19:1)では、「救い出す(deliverance)」
の意味で用いられています。個個の殉教者の状況はここでは分かりませんが、
少なくとも、彼らは、神が助け出してくださった、と受け止め、賛歌を歌って
いるのです。
 神は、本当に困ったときに助け出してくださるのではないでしょうか。
次回は、救出に止まらず、勝利を与えてくださる神について学んでまいりましょう。

(この項、完)



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