2021年6月6日
〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕
第57回「ヨハネの黙示録7章9〜10節」
(16/9/25)(その1)
9〜10節「この後、私が見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉
が違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を
身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声で
こう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのも
のである。』」
文脈を明確にしておく必要があります。
第四の封印の開封までは、警告としての意味合いが強いものでした。そこで、
第五の封印の開封と共に、殉教者たちのクレームが寄せられました。「真実で
聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をな
さらないのですか。」とのクレームです。そこでこれらの殉教者たちには、復
活の身体のしるしである「白い衣」を与えられ、永遠の命を先取りさせること
となりました。
そしてこれ以降、封印が開封されるにしたがって、裁きとしての災厄がだん
だんと大きくなっていく、と同時に、救われる者には、その救いの保証がより
確かなものにされていく、という過程をたどることとなります。
第六の封印の開封によって引き起こされた災厄は、地球規模いや宇宙規模の
ものでした。
災厄はどんどん厳しくなり、その災厄に対応する地の民とのギャップがどん
どん大きくなっていきます。このギャップはこの後更に広がることでしょう。
そして、第七の封印の開封によって、さらなる厳しい災厄へと突き進んで行
くはずなのですが、ここで、一方で、救われた者への「復活の命の保証」が確
かなものとされることとなります。
まず、神によって「聖なる民」とされたイスラエル(申命記7:6)、につ
いてはどうなのでしょうか。彼らは、イエス・キリストよりも先の時代に生き
ていたので、イエス・キリストを知らないのですが。
これについては、神は、玉座に座っておられる方、は、きちんと復活の命(か
らだ)を用意していてくださることを宣言されます。一部族12,000人ずつ、全部
で144,000人が救われます。12という数字は、イスラエルでは完全数ですから、
全部族から12,000人ずつが救われる、ということは、原則として全員が救われ
る、ということを意味します。
しかし、ここでの12,000人は、「神の救いの計画」をすべて含んだ上での
12,000人です。この幻は将来のことですが、だとすると、救いの「刻印押し」
の作業は、現在進行中、と言えるでしょう。
そして、イスラエルの部族の中でも、既に救いから漏れてしまっている人々
が出ているのです。
たとえば、イスラエルの部族表の中にはダン部族の名があったはずなのに
(民数記1章など)、ここにはダンの名はありません。
黙示録には何の説明もないのですが、逆に言えば、黙示録の時代の人にとって
は「ああ、あれか」と、既知の事柄であったのだ、と思われます。士師記18:14
以下によると、士師の時代の末期ごろ、「そのころ、イスラエルには王がなく、
それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた(士師記17:6)」とされ
非難され、る時代、ダンの部族の者は、嗣業の土地が与えられなかったこと
を理由にして(ヨシュア記19:40以下)、ライシュという町を襲い、民を剣に
かけて殺し、町に灯を放って焼き、そして、その町を再建してダンと名付け
てそこに住んだのです。そればかりではありません。自分たちが盗んだ鋳像を
礼拝したのです。
この出来事は、ユダヤ教世界でも、大変に問題視され、非難され、「ダンの
遺訓」という書物では、「ダン族はサタンに仕えている」とまで言われてきま
した。
この「ダン族に対する評価」が一般的なものであったか、そしてそれをヨハ
ネの黙示録の著者が採用したのかどうか、は分かりませんが、証明の仕様があ
りませんが、この「ダン族自体の欠落」は、イスラエルの12部族の者といえど
も、神のみ心によるのでなければ、「自動的には」救いに与るわけではない、
ことを示しているのではないでしょうか。
(この項、続く)
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