2021年5月09日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第55回「ヨハネの黙示録6章12〜17節」
(16/9/4)(その1)

 必要な限りにおいて、前回までの振り返りをしておきたい、と思います。
小羊が、7つの封印を順に開いています。4つ目の開封まで、馬が出て来て、地
上に災厄をもたらしました。神の裁きです。しかしそれは、神の警告であって、
神はあくまでも、悔い改めを待っておられました。
 悔い改めがなされるかどうか、は今後の課題ですが、ここで第5の開封にお
いて、クレーマーが登場しました。殉教者たちです。
 この人々が、「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわ
たしたちの血の復讐をなさらないのですか。」と叫ぶのです。
 殉教者とは、神の言葉のために、自分たちの証しのために、血を流した人々
です。痛い思いをした人たちです。
 その人々が、その人々の魂が、日本的な表現を使えば、「成仏」できずに、
天にある祭壇の下の、犠牲の血をためておく血の海の中で「恨めしい」「恨め
しい」と叫び続けているのです。
 さあ、どうしましょう。
意外にも、神はこれらの魂に冷たい態度を取ります。「時が満ちるまで待て」
つまり、「もっと殉教者が増えるまで待て」という訳です。
 何ということでしょう。
しかし、それは、単なる「冷酷」ではなく、殉教者と言えども、復活の命を与
えられるには不十分なところを、恵みをもって補ってくださるためだったので
す。
 彼らには、白い衣、復活の身体、が先取りして与えられました。
こうして、神の終末の歴史は、一方では悔い改めを待つことと、他方では、神
のために苦労した人々に恵みを先取りして与える、という形で、進行していく
こととなりました。
 この二つの、場合によっては矛盾する二つの課題を受けて、第六の封印が開
封されることとなります。
 第六の封印の開封と共に明らかにされたことは、しばらくは「このままいく」
と言うことです。一つは、神は更に、裁きとしての災厄を与えて、警告を続け
ることを進められること、そして、もう一つは、復活の身体を先取りさせてい
ただいた更に多くの人々の存在です。今日は、前半のさらなる災厄の進展につ
いて学びましょう。

12〜17節「また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震
が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、
天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振
り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、
みなその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、
また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に
向かって、『わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔
と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ』と言った。神と小羊の怒り
の大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。」

 第一から第四までの開封によって与えられた災厄は次のようなものでした。
第一の白い馬は、裁きの前提としての、世界福音宣教をもたらしました。
第二の赤い馬は、聖職者への裁きをもたらしました。互いに相争い、自滅して
いくのです。
 第三の黒い馬は、警告としての飢饉をもたらしました。その程度は、実はた
いしたことはありません。
 第四のグリーンの馬は、疫病をもたらしました。これは、死に至る病です。
しかし、人類が全滅をするということはなく、災厄は一部にとどまります。
 全体を通して、厳しい災厄であることには変わりありません。しかし、私た
ちは、その一つ一つに対する対応策をすでに持っています。聖職者の堕落に対
しては、法の整備、ここで出てくる程度の飢饉については、国際機関の活躍、
そして疫病については、医療の進歩をもって、です。なぜ、対応ができるのか、
と言えば、ここでの災厄は人類が歴史上経験してきたものであり、警告として
の意味合いをわたしたちが受け取るかどうかだけが、純粋に問われていたから
です。

(この項、続く)



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