2021年5月22日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第54回「ヨハネの黙示録6章9〜11節」
(16/8/28)(その2)
(承前)

 さて、その祭壇ですが、明らかに香をたく祭壇(出エジプト記30)ではなく
て、燔祭を献げる祭壇です。そして、その下に見者ヨハネは、殉教者の魂
(「プシュケー」)がうようよしているのを見たのです。
 どのような光景だったのか、皆さま想像してみていただきたいのですが、
まず、魂(「プシュケー」)とは、聖書の世界では、霊(「プニューマ」)と
違って肉体の一部です。が、それが、まだ復活のからだを得ることができずに、
魂(「プシュケー」)のまま漂っているわけです。天にはいますが、ハデスとほ
とんど同じ状態です。
 そして祭壇という語は聖書の中で数えきれないほど出てきますが、その中で
「祭壇の下」と言えばただ一つ、犠牲として献げられた動物の血を流すところ
(レビ記4:7ほか多数)だったのです。
 更に、魂(「プシュケー」)は、人体のどこにいるか、と言えば、血の中にい
る、と考えられていました(レビ記17:11など)。
 つまり、もうお分かりでしょう。天の祭壇の下には、殉教者の血がうじゃう
じゃ漂っていて、その中に殉教者の魂(「プシュケー」)が目玉のごとくに飛び
出しては、「恨めしい」「恨めしい」と叫んでいたのです。
 天国も、おどろおどろしいところでもあったのです。
さて、その殉教者の魂(「プシュケー」)が何と言っていたのか。

10節「彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、
地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』」

 殉教者も、私たちが考えるような「聖人」とは違うかもしれません。何をし
ても怒らないような人ではなく、怨念の塊です。
 それに対して、神の慰めの言葉が与えられました。11節は、あえて主語が隠
され、受け身、受動型で記されていますが、それは、玉座に座っておられる方、
神が直接語られた、ということです。
 11節「すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じ
ように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちる
まで、なお、しばらく待つようにと告げられた。」
 何しろ、神のために、イエスのために、と言うことで、中には想像もつかな
いくらい痛い思いをした人もいることでしょう、命を落とした人たちです。で
すから、この人たちの要求は、真っ先にかなえられるべきなのではないでしょう
か。
 が、簡単に言えば、ユダヤ教の思想を用いて、殉教者の要求は拒否されまし
た。神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺されたのに、一体どうしたこ
となのでしょうか。その理由は二つ。一つは、殉教者の数が満ちたとき、その
とき世界の終末が来る、という思想にもとづくものです。そしてもう一つ。殉
教者の「信仰」が、それでも復活のからだを与えられるまでには、まだ足りな
いのです。
 一体どういうことなのでしょうか。
まず、彼らは、神さまに「真実で聖なる主よ、」と呼びかけましたが、この
「主」は、翻訳では分かりませんが、ふつうイエス様に呼びかける時の主
(「キュリオス」)ではなく、「デスポテース(「親方様」というニュアンス)」
です。彼らにとって、イエス様は、「親方様」だったのです。
 また、殉教者仲間のことが、「僕(奴隷)」と呼ばれています。が、「デス
ポテース(「親方様」というニュアンス)」に対しては、同じ組の仲間という意
味になります。
 つまり彼らは、イエス親分のもとの子分たちであり、親分のために命をなげ
うったのだから、「親分仕返しをしてください」という信仰だったのです。少
なくとも、そういう信仰を引きずっていたのです。
 そう言えば、彼らがたてた「証し」もイエスの証しではなく、自分たちの証
しでしたね。真実に、イエスに全面的に頼るところからは、ずれていた可能性
があるのです。
 彼らにとって、何が最も大切だったのか。それは、ひょっとしたら、実は、
自分がたてた「誓い」だったのかもしれません。純粋であったとは思われます
が、殉教者ならではの間違いです。贖いの主はこういう信仰は喜ばれません。
 しかし、それにも拘わらず、贖いの主は彼らを受け入れ、白い衣を与えられ
ました。血の海に見え隠れする目玉に、どうやって白い衣を着せるのか、私た
ちには、想像がつきませんが、これは、そういう意味ではなく、復活の「身体」
が与えられた、ということです。先取りして与えられたのです。
 キリスト教の本来の信仰には、殉教者をやたらに美化したり、崇拝したりす
る信仰はありません。殉教者と言えども罪人のひとりであり、その証は尊いけ
れども、それだけで神の国に入ることはできません。キリストの贖いに与って
初めて、復活のいのちに入れられるのです。殉教者崇拝が始まるのは、後の時
代になってからです。

(この項、完)



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