2021年4月25日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第54回「ヨハネの黙示録6章9〜11節」
(16/8/28)(その1)

 先週で、第四の開封までが終わりました。
振り返ってみますと、第一の白い馬は、世界宣教の使命を帯び、第二の赤い馬
は、特に聖職者への裁きを使命とし、第三の黒い馬は、警告としての飢饉とい
う裁きをもたらすために遣わされ、そして第四の「グリーンの」馬は、死に至
る病としての疫病をもたらすために遣わされました。
 第一の「世界宣教」も、マルコによる福音書13:10にありますように、裁き
を前提としての世界宣教であり、どれもこれも厳しい裁きであることには変わ
りないのですが、丁寧に見てきましたように、どれも、滅ぼすことを目的とし
たものではなく、警告としての裁きでした。神はぎりぎりのぎりぎりまで、悔
い改めを待っておられる方である、と言うことがよく分かりました。
 私たちは、神が待っていてくださることを無駄にすることなく、それにお答
えする者でありたい、と思うものであります。
 ところが、この「待たれる神」に対して、猛然と抗議する者が登場すること
となったのです。第五の開封で登場した殉教者です。殉教者は、キリスト教へ
の迫害によって血を流した人のことです。神に対して、「私たちの流した血は
どうなるのですか。何よりも早く、私たちの血の復讐を果たしてください。」
と叫ぶのです。
 どういうことなのか。第五の開封の出来事を丁寧に見てまいりましょう。
9〜11節「小羊が第5の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しの
ために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫ん
だ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの
血の復讐をなさらないのですか。』すると、その一人一人に、白い衣が与えら
れ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕
である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく待つようにと告げられた。」
 一般に、「殉教者」と訳される語の原語は「マルトゥス」ないしは
「マルトゥル」です。しかし、この語の新約聖書の35回の用例のうち、明確に
「殉教者」という意味で使われているところは、3例に過ぎず、後は「証人」
という意味です。
 つまり、「マルトゥス」ないしは「マルトゥル」という語は、「証人」、と
りわけ、主イエスの十字架と復活を証しする人のことを指していたのですが、
その人々の中に、ステファノが最初ですが、命をおとす人々が出て来て、つま
り、「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々」が出て来て、
その人々が、殉教者(「マルトゥス」ないしは「マルトゥル」)と呼ばれるよ
うになったのです。
 主イエスの十字架と復活を証しすることはしんどいことです。抵抗もありま
す。ですから、その意味では、主イエスの十字架と復活を証しして苦労するす
べての人が殉教者と言えますが、事実命を落とす人が、急激に増えてきたのが、
ヨハネの黙示録の時代でした。
 日本におけるキリスト教宣教の歴史においても、キリシタン時代を中心に多
くの殉教者を出してきました。第二次大戦中に教会の主流は体制になびきまし
たが、殉教者を出した教派もあります。また、日本帝国主義支配下の朝鮮半島
においては、教会が独立運動の担い手となったため、厳しい弾圧を受け、多く
の殉教者を出しました。
 ヨハネの黙示録の時代に始まり、現代に至る殉教の歴史において、殉教者は
何を思って死に赴いて行ったのでしょうか。中には、イエス・キリストに倣って、
あるいはステファノに倣って、「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をし
ているのかわからないのです。」という祈りにまで至って死んでいった人もい
るでしょう。しかし、そういう人たちにおいてもその根底には、つまりすべて
の殉教者の思いの根底には、「神よ、これらの人々(迫害者)に復讐をもって
報いてください。」という怨念が渦巻いていたのではないでしょうか。
 そして、これらの人々が、終末の時を迎え、やっと神の裁きの時が来たのに、
そこでの神の裁きは、ほとんど警告にしか過ぎない、ということを目の当たり
にしたとき、どう思うか、皆さまどう思われます?
今日の話の出発点はそこにあるのであります。
 さて、9節、「小羊が第5の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたて
た証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。」
 さて、『屠られたような小羊』であられるイエスが第5の封印を開いたとき、
見者ヨハネは、そこに祭壇を見ました。
 読者にとっては、「天国に祭壇がある」という話自体初耳ですから、「本当
か?」と思いますが、見者ヨハネが「見た」と言うのですから、実際見たので
しょう。そして、ヘブライ人への手紙8:5では、「地上の祭壇は、天にある
ものの写しである」と記されていますので、既に「天に祭壇がある」という考
え方があり、見者ヨハネにとっては、天に祭壇がある、ということは常識、前
提であったことと考えられます。

(この項、続く)



(C)2001-2021 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.