2021年4月4日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第52回「ヨハネの黙示録6章5〜6節」
(16/8/14)(その2)
(承前)

 それは、赤い馬の場合から類推してみると、乗っている者が持っていた秤に
ヒントがありそうです。秤は、言うまでもなく、量、重さを図るものです。聖
書の時代の秤は、天秤棒だったようですが、旧約に11回、新約には、ここを除
いて3回だけ登場します。そのうち9回は、実際の秤の意味、5回は、「正義」
などを量る、の意で、象徴的に用いられています。が、そのどちらも、ここ、
黙示録6:5の文脈には合いません。
 それでは、ここでの秤はどういう意味なのでしょうか。
ヒントになるのが、エゼキエル書4:16〜17です。そこにはこう書かれています。
「また、主はわたしに言われた。『人の子よ、わたしはエルサレムのパンをつ
るして蓄える棒を折る。彼らはおびえながらパンの目方を量って食べ、硬直し
た様で水を升で量って飲むようになる。彼らは罪にゆえにパンにも水にも事欠
き、やせ衰えて、互いに恐れに取りつかれる。』」
 これは、エルサレムに飢饉がやってくることの預言です。当時は、パンは棒
につるして売られていたようですが、飢饉が来て、人々はパンに事欠くように
なり、その「パン棒」は必要なくなる。そして、人々は、秤で量ってパンを購
入しなければならなくなる、との意です。よって、この記事から、秤は飢饉の
象徴とみなされるようになったのです。
 黙示録にも、この考えが背景にある、と考えられますので、乗っている者が
持っていた秤は、「飢饉」を意味していたのです。
 それでは、神がもたらそうとしている「飢饉」はどの程度の規模のものなの
でしょうか。それが6節です。
 6節「わたしは、4つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うの
を聞いた。『小麦は1コイニクスで1デナリオン。大麦は3コイニクスで1デ
ナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな。』」
 ここは、当時の量の単位と貨幣の単位が出てきますので、一見難しそうです
が、言っていることは単純で、分かりやすいところです。
 コイニクスとは、暈の単位で、1コイニクスは、現在の単位で言うと、
1.08リットルにあたります。デナリオンは、貨幣単位で、当時の労働者の1日
の日当相当の金額です。現代の日本に換算してみると、1万円と考えていただ
いて、間違いない、と思います。
 とは言え、これだけでは、高いのか、安いのか分からないと思いますが、当
時の小麦と大麦の平均価格は、平均、と言っても時代によって多少異なります
が、小麦は、1コイニクス、0.06デナリオン、大麦は、1コイニクス、0.041
デナリオンでしたので、小麦に関しては、約16倍、大麦に関しては約8倍の高
騰ということになります。
 ざっくばらんに言うと、小麦に関しては、今まで100円で買えた量が1,600円、
大麦については800円かかる、ということです。
 たいへんな高騰です。
が、それは、今、アフリカで起きているような、絶対的貧困、そもそも食べ物
が全然ない、ということではない。しかも、オリーブ油と、ぶどう酒は満ち足
りていたようなので、この「黒い馬」がもたらす「飢饉」とは、年配の方、覚
えていらっしゃいますでしょうか、1970年代の「オイル・ショック」に際して、
砂糖の値段が高騰し、砂糖が高価な贈り物としてもてはやされた、あの程度の
「飢饉」だ、ということなのです。
 早速結論に入ります。
神様が、終末の裁きとして、厳しい「飢饉」を引き起こされる、と言うのなら、
地球上の生物が度々自然界の秩序を乱してきたことを振り返りました時に、
「さもありなん」と思わざるを得ません。
 しかし、神さまが終末の時に「オイル・ショック」程度の「飢饉」をおこさ
れる、とはいったいどうしたことなのでしょうか。私たちが、そのようなこと
を言える立場にはありませんが、それでは裁きにも、何にもならないのではな
いでしょうか。
 一体、この裁きには何の意味があるのか。
その答えは、「赤い馬」の場合と同じく、ユダヤ教以来の考え方を知らないと
理解できません。
 「ソター」というユダヤ教の書の中に次のようなことが書かれています。
「メシアの時が手元に来るとき、「厚かましさ」が膨れ上がり、飢饉がある。
ブドウの木は実を実らせる。しかし、ワインは高騰する。世界帝国においては、
規律が乱れる。息子は父親を軽蔑し、娘は母に反抗する。自分の家族が敵とな
る。」
 ここで、言われている裁きは、絶対的な飢餓ではありません。社会の秩序の
乱れがあると、穀物についても、秩序が乱れる、ということを言っているので
す。問題は、人間社会の乱れです。それが裁かれているのです。
 ゆえに、この裁きは、滅びをもたらすためのものではなく、悔い改めを求め
るためのものなのではないでしょうか。

(この項、完)



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