2021年2月21日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第49回「ヨハネの黙示録5章14節」
(16/7/17)(その2)
(承前)
 しかし、問題は「地の下」です。これは何でしょうか。今日はまず、「地の
下」を明らかにして、それから、先に進むことといたしましょう。
 「地の下」とは、地中に住む生物や、存在する岩石のことではなく、旧約聖
書時代には「シェオール」と呼ばれ、新約聖書時代になると「ハデス」と呼ば
れた死者の住む世界であることは言うまでもありません。どのような世界であ
るか、は説教の中で度々触れてきたとおりです。
 しかし「地の下にいる被造物も『屠られたような小羊』であられるイエスを
賛美した」という記述には2つの問題があります。
 一つは、被造物の中心である諸霊が死んで「ハデス」に降る、ないしは「入
る」ことがあるか、という問題です。
 日本的な考え方からすると、「霊」は永遠不滅だと思われていますから、
「霊が死ぬことも、「ハデス」に降ることもそんなことないんじゃない」と
思われるかもしれません。
 しかし、聖書の世界では、「霊」について正しく捉えていますから、「霊」
も死んで「ハデス」に降るのです。
 創世記5章を見ますと、アダムからノアに至る系図が記されていますが、エ
ノクの365年以外は、皆900年以上、生きていて、とても不思議に思える箇所で
す。
 が、これは、人が生きるのは、神の息(ネフェシュ=霊)を吹き込まれた(創2:7)
がゆえに起こるできごとであって、6:3にあるように神の霊が引き上げた途端、
人の寿命は120年に激減しました。
 つまり、人も霊も、神の霊がとどまっている限り生きることができるので
あって、神の霊が去った途端死を迎える、これが聖書の霊魂観なのです。「ハ
デス」には、人間ばかりではなく、死んだ霊がうじゃうじゃとどまっていたは
ずです。
 そして、詩編の6:5などにみられるごとく、「ハデス」においては、その声が
神に届くことはなかったのです。
 そしてそこで第二の問題ですが、その声がなぜ神に届くようになったか、と
言えば、…
 これは、かつて「ハイデルベルク」の説教で詳しく申し上げたので、詳しく
は申しませんが、主イエス・キリストは死んで陰府(ハデス)に降り、そこで
宣教をされ(ペトロT3章)、そしてそれから天に昇られたがゆえに、「ハデス」
にいる霊たちが贖われたのです。
 こういう背景があって、ここで、ヨハネの黙示録において、見者ヨハネが見
た将来の神の国において、「地の下にいる被造物も『屠られたような小羊』で
あられるイエスを賛美した」のであります。
 そして、終わりの時には、「ハデス」は解消されるはずなのです。
 「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない(21:4)」それが、た
だの天国ではない、「終わりの時」の神の国の有様なのです。
 こうして、贖われたすべての者、あるいはその関係者の讃美が終わって、最
後に4つの生き物と、長老が締めくくりました。それが今日の聖書です。

14「四つの生き物は『アーメン』と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。」

 『アーメン』は、その意味については度々触れました。
しかし、その使われ方については、黙示録では4つのものがあります。
 一つは、直前に言われたことに心から同意する場合(7:12など)。2つ目は、
リタージの応答として、第三は、自分の祈りの締めくくりとして(1:6,7)。そ
して最後に、「アーメン」の本来の意味で、「アーメンなる神」への呼びかけ
として(3:14)。
 ここはどうでしょうか。3つの讃美の後の「アーメン」ですので、2つ目の、
リタージの応答としての『アーメン』でしょう。しかし、5章全体を一つの礼
拝と捉えるならば、この礼拝において、司会者にあたる四つの生き物と長老た
ちが『アーメン』を持って礼拝の締めくくりとしたのです。
 『屠られたような小羊』であられるイエスの贖いの業が、全地、そしてすべ
ての者に及ぶことこそが、終末の時の目標であったのです。

(この項、完)



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