2021年2月14日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第49回「ヨハネの黙示録5章14節」
(16/7/17)(その1)

14「四つの生き物は『アーメン』と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。」

 将来の神の国、まさに天国において、玉座に座っておられる方、神さまが、
巻物の封印を解く方として、『屠られたような小羊』であられるイエスをご指
名なさり、まさに、『屠られたような小羊』であられるイエスがそれを玉座に
座っておられる方の右の手から受け取ったときの出来事の締めくくりです。
 まず、玉座を取り囲んでいる四つの生き物と、二十四人の長老が「新しい賛
歌」を歌いました。
 その長老たちの讃美歌に続いて、天使たちが賛美を歌いました。
そして、それに続いて、すべての被造物が賛美をささげました。
先週は、その讃美をささげた被造物とは何か、ということを論じました。
 「被造物」が神によってつくられたものであることは確かですが、人間も被
造物の一つですし、人間も含むのか、はたまた、生物のみをさすのか、無生物
をも指すのか。また、生物だとしても、動物だけなのか、植物は含まれないの
か、といった問題です。
 人間に関しては、7章からうじゃうじゃ出てきますので、ここでは含まれて
いない、と考えてよいのではないか、と思われますが、それでは何なのか、と
いうことになります。
 ところが、ここで使われている「クティスマ(原語)」という語は、この箇
所をも含めて、新約聖書に4例しか用例がなく、しかもこの箇所以外は説明な
しに用いられているので、意味の特定が難しいのです。
 しかし、そこで、類語の「クティシス」を見てみると、多くの用例があり、
「被造物(クティシス)」が何を指す言葉として用いられてきたか、よく分か
るのです。特に注目すべきはパウロの用法です。
 まず、パウロは、ローマの信徒への手紙8章19〜23節のところで、このよう
に言っています。
 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無
に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の
意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつ
か滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由に与れるから
です。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に生みの苦しみを味わってい
ることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただ
いているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、
心の中で呻きながら待ち望んでいます。」
 「私たち(人間)」と区別された、しかし、贖いを求めている存在、それは、
諸霊しかありません。「被造物(クティシス)」という言葉が用いられる時、
その中心には「諸霊」がいたのです。
 諸霊は、しばしば偶像として祀られることさえありましたが、実は、人間と
同じく、贖いを求めて苦しむ存在だったのです。
 ですから、諸霊を「カミ」として拝むことは間違いであり、私たちは、諸霊
が贖われるように、祈って差し上げなければならなかったのです。
 そして、『屠られたような小羊』であられるイエスを礼拝したのは、諸霊を
中心とするすべての被造物ばかりでなく、「そこにいるあらゆるもの」でした
から、文字通り、「すべての被造物」が、『屠られたような小羊』であられる
イエスを賛美したのでしょう。そこには、「すべての被造物には、霊が宿って
いる」という考えがあったかもしれません。
 さて今日は、14節に入る前に、その諸霊が住むところを確認しておきたい、
と思います。
 13節に「天と地と地の下と海にいるすべての被造物」とありました。「天」
とは天国のことではなく、空中のことです。鳥などが住むところです。「地」
は地面の上です。そして「海」は文字通り「海」です。これらは、古代人の考
える3つの世界を表わしています。

(この項、続く)



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