2021年2月7日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第48回「ヨハネの黙示録5章13節」
(16/7/10)(その2)
(承前)

 被造物とは何でしょうか。この「クティスマ(原語)」という語が問題です。
この語は、「神によってつくられたもの」すなわち「被造物」という意味があ
ることには、疑う余地がありません。しかし、「被造物」とはいってもどこか
らどこまでを指すのか、それが問題です。
 たとえば、生物のみをさすのか、無生物をも指すのか。また、生物だとして
も、動物だけなのか、植物は含まれないのか、といった問題です。
 さらに、問いを発展させれば、地球以外の天体における生物はどうなのか、
といった問いにもなってくるはずですが、この問いは、当時の天文学などの知
識においては意識されていないでしょうから、地球上のみが考えられていたこ
とは確かです。
 ところが、この「クティスマ(原語)」という語は、この箇所をも含めて、
新約聖書に4例しか用例が無く、しかもこの箇所以外は説明なしに用いられて
いるので、意味の特定が難しいのです。「クティスマ(原語)」だけでは、行
き詰ってしまいました。
 そこで、類語の「クティシス」を見てみることといたしましょう。「クティ
シス」も「クティスマ(原語)」と同じく、「クティゾー(動詞)」という語か
らできた語で、やはり「被造物」という意味があります。
 「クティシス」は、用例が多く、かなり意味が特化できそうな気がいたしま
す。中でも注目すべきは、ギリシア語の達人パウロの用法です。
 まず、パウロは、ローマの信徒への手紙8章19〜23節のところで、このよう
に行っています。
 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無
に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の
意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつ
か滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由に与れるから
です。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に生みの苦しみを味わってい
ることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただ
いているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、
心の中で呻きながら待ち望んでいます。」
 皆さま、この箇所を改めて読んでみて、パウロの言う「被造物」とは一体何
なのか、どのように受けとられましたでしょうか。
 神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる「被造物」、人間と「共にうめ
き、共に生みの苦しみを味わっている」被造物、人間に極めて近いものなので
はないでしょうか。わたしは、家で一緒に暮らしていた愛犬マーベルはこれに
近いかな、と思いますが、しかし、マーベルが、共にうめき、共に生みの苦し
みを味わいながら、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいたかというと、
そこまでは確信が持てません。
 では何者を指しているのでしょうか。私は、パウロの言う被造物とは「諸霊」
なのではないか、と思っています。「諸霊」は、聖書の世界では、単なる被造
物なのです。そして人間に最も近い。
 となると、諸宗教の祀っている神々も、この諸霊の一つですから、実は、共
にうめき、共に生みの苦しみを味わって、神の子たちの現れるのを切に待ち望
んでいる被造物のひとつに過ぎないことになるのではないでしょうか。
 そしてパウロは決定打!
ローマの信徒への手紙1:25で、偶像礼拝のことを「神の真理を偽りに替え、
作り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。」ここで「造られ
た物」と訳されている部分は、「クティシス」という語が使われているのです。
 もう皆さまお分かりでしょう。「被造物」の中心には、「他の神々」とされ
てきた「諸霊」なる神々がおり、それらが、この終わりの時になると、「玉座
に座っておられる方」の前にひれ伏し、何と賛美している、というのが、見者
ヨハネが垣間見た天国のドラマの一シーンだったのです。
 もうそこでは、他宗教の問題、宗教間の葛藤に悩む必要はない。すべての霊
が一つとなる世界が実現していたのです。
 さて、しかし、ヨハネの黙示録では、「被造物」は、「諸霊」だけではあり
ません。「天と地と地の下と海にいる」すべての者なのです。たとえ、人間に
近い者が想定されていたとしても、その範囲は、地の下(ハデス)」にまで及ん
でいます。これは一体どうしたことなのか。
 この問題につきましては、次回の最初に触れることといたしましょう。

(この項、終わり)



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