2021年1月10日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第46回「ヨハネの黙示録5章10節」
(16/6/19)(その2)
(承前)

 それでは、イエスは、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の」
何を贖われたのでしょうか。
 ヨハネの黙示録1:5に、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から
解放してくださった方に、…栄光と力が世々限りなくありますように、アーメ
ン」とありましたように、一つは、罪からの解放ということでしょう。
 が、しかし、5:9では、「罪からの解放」とは言われておりません。よって、
ここでは、異邦世界の悪の力からの解放が求められている、と受け取るべきで
す。
 「あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民」すなわち、わたした
ちが、罪と悪の力から解放されることが祈り求められていたのです。
 さて、それでは、罪と悪の力から解放されたわたしたちはどうなるのでしょう
か。もちろん、解放されたその後のことですから、今の問題ではありませんが、
心配です。それが、10節、今日のテキストに述べられております。

10節「彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。彼
らは地上を統治します。」

 「彼ら」とは、「あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民」です。
ユダヤ人ばかりでなく、すべての民が、以下に述べられる特権に与ることがで
きるのです。
 なぜ、「ユダヤ人ばかりでなく」と言ったかというと、「あなたを王、祭司
とする」という特権は、そもそもは神が、イスラエルの民、のちのユダヤ人に
与えたものでした(出エジプト記19:6)。王というのは、地上における神の
代理人として、支配権を行使します。祭司は、これまた、地上における神の代
理人として、「とりなし」の権利を行使するのです。
 それゆえ、イスラエルの民は、地の民の代表として、地の民を支配し、とり
なしの務めを果たすはずでした。
 ところが、イスラエルはその務めを果たすことができず、今度は、「あらゆ
る種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民」にして、キリストに贖われた者、
すなわちクリスチャンにその特権を付与する、いや、「した」と天上世界では
言われていたのです。「彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司とな
さったからです。」の「なさったからです」の部分は、日本語訳では分かりに
くいですが、「過去の事実」を表わす時制で書かれています。いま、もうすで
にそうなっているので、わたしたちが、将来天国に行ったら、「もう御指名さ
れていました」ということです。
 しかし、王ですとか、祭司ですとか、えらいたいへんな仕事で、「私にはよ
うつとまりません」と思います。しかし、それは、自分の能力でするのではな
く、「神にあって」するのであるから、「そういう意識で日々生きなさい」と
いう意味です。私たちは、どんなに小さくとも、自分の守備範囲では、神に
あって王なのです。
 ちなみに、原文は、「神にあって」であって、「神に仕える」とはどこにも
書かれていません。「王になったからと言ってえらそうにされては困る」と翻
訳者が心配して勝手に付け加えた注釈です。無視していただいて結構です。
 しかしそれよりも、わたしたちが王として指名されたのだからといって、良
い政治をさせてくれない抵抗勢力のいかに多いことか。どうしたらよいので
しょう。見者ヨハネの時代のローマ帝国がまさにそれでした。抵抗どころか、
迫害、殺害まで仕掛けてきたのです。
 そこで、この賛歌においては、そのクリスチャンの支配は、今直ちにできる
ことではないかもしれない。いや、できないでしょう。しかし、やがてできる
ようになるという約束を信じて「頑張りなさい」という注釈をつけて、この賛
歌を締めくくったのです。
 「彼らは地上を統治します。」は、現在形ではなく、将来の約束を示す未来
形で書かれているのであります。
 ご指名を受けたかもしれないけれども、直ちに実現できるわけではない、と
大変にまどろっこしさを覚えるかもしれませんが、その「待つこと」そして
「忍耐すること」に、「神にあって」の深い意味があることを覚えて、神のみ
心を求めつつ、耳を傾けつつ歩んでまいりたいものだ、と思います。

(この項、完)



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