2020年12月27日
〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕
第45回「ヨハネの黙示録5章9節」
(16/6/12)(その2)
(承前)
この「新しい歌(オーデーン・カイネーン)」は、「異邦世界の救い」を求
める点では、ユダヤ教時代と比べて、ちっとも新しくはないのですが、ユダヤ
人が勝手に「異邦世界のことも配慮しているよ」と押し付けたとりなしではな
く、異邦人自身が、自らの救いを求めるとりなしであった、その点が全く新し
いものであったのです。
ということは、実は、この賛歌、とりなしの歌は、どこか遠いところで、だ
れか知らない人が勝手に祈った祈りではなく、わたしたち自身の祈りが込めら
れた「新しい歌(オーデーン・カイネーン)」であったのです。
わたしたちも同胞と世界のとりなしを求めています。私たち自身の祈りとし
て、この歌を見てまいりましょう。
賛歌は、ギリシア語の語順通りに読むと、「あなたは、巻物を受け取り、そ
の封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、…御自分の血で、
神のために人々を贖われ、」とつながります。
巻物を受け取るだけだとすると、「裁きを受け取る」ということにもなりか
ねませんが、「その封印を開く」ということで、終わりの日の贖いをもたらす
者、とその役割が逆転いたします。そして、その役割を担えるのは、そして実
際になってくださったのは、屠られ、「贖った(アゴラゾー)」、イエスのみ
である、とうたわれています。
「贖った(アゴラゾー)」という語は、パウロがTコリント6:20などで用
いている語であり、「血の代価による買い取り」つまり「贖い」の意味です。
キリストの十字架の出来事が、ターニングポイントであり、この出来事によって、
そして、この出来事によってのみ、終わりの日の贖いが成就される、のです。
さて、次の問題は、その贖いによって、人は何から贖われるのか、自由とさ
れるのか、という問題です。
テキストは「あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から」と
なっています。
このうち、「の中から」は、誤訳とまでは行きませんが、誤解される訳です。
むしろ「を」とした方が、先ほど述べてきた、原文のニュアンスがよく伝わり
ます。イエスは「あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民を」贖わ
れたのです。
それでは、イエスは、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の」
何を贖われたのでしょうか。
ヨハネの黙示録1:5においては、ヨハネの黙示録の序としての賛歌に置い
て、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、
…栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」とありました。罪から
の解放ということです。
しかし、5:9では、「罪からの解放」とは言われておりません。そこで、
9節では「罪からの解放」は考えられていないのではないか、という人がおり
ますが、決してそうではありません。古代人には、そもそも個人と全体(社会)
とは別、とする考えはありません。罪は、個人を不自由に陥らせるとともに、
社会全体をも悪の支配下に置いてしまうのです。
よって、ここでも、異邦人クリスチャン自身と、同時に、その同胞の悪の力
からの解放が求められている、と受け取るべきです。
個人の自分だけの救いが求められているのではない、と同時に、ローマ帝国
からの解放だけが求められているのでもない、ということを心して、この祈り
を受け止めたいものだ、と思います。
(この項、完)
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