2020年12月13日

〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕

第44回「ヨハネの黙示録5章8節」
(16/6/5)(その2)
(承前)

 もちろん、竪琴も香の入った鉢(壺)も礼拝において用いられる小道具です。
竪琴とは、詩編33:3にも出てくる、神を賛美するための楽器です。現物が残って
いないので、詳細は不明ですが、ハンディーなものであったことでしょう。
 香も、本日の旧約書、出エジプト記40:5にあるように、神殿礼拝になくては
ならないものでした。しかし香の入った壺(鉢)とはいかなるものか。これは、
香の入った手のひらサイズの鉢を掌で抱える、といったものではなくて、カト
リック教会でミサの時に助祭が、香の入った壺を、長い紐をつけて振り回すあ
れがイメージされている、と思われます。
 だとすると、右手に竪琴を持って、左手で香の入った壺を振り回しながら、
ひれ伏すことができるか、というと、それは困難なのではないでしょうか。
 よって、皆が礼拝したことは礼拝したのだが、全員が小道具を持ってひれ伏
したのではなく、4つの生き物と24人の長老の片方のグループは、片手で竪琴
を持って、器用に奏でたかもしれません、もう一方の手で香を振り回すことに
専念し、もう一方のグループは、ただひたすらひれ伏していた、というのが実
態だったのではないでしょうか。
 さて、それでは、次に、どちらのグループがひれ伏す派、どちらのグループ
が楽器を奏で、香を振り回す派か、ということですが、それは、「この香は聖
なる者たちの祈りである。」という、最後に付け加えられた一文から判断でき
ます。
 香には、聖徒たち、聖徒たちとは、黙示録では一貫して、終わりの日の贖い
を待ち望んでいるクリスチャンのことです、の祈りの意味が込められているの
です。自分自身の救いの求めでもあります。しかし、そればかりではなく、世
界が贖われて救われるように、との祈りでもあります。
 この「屠られたような小羊」の前での礼拝は、そのような2つの意味を持った
礼拝でした。
 ところで、黙示録は、もちろん見者ヨハネが見た幻を書き記したものではあ
りますが、見者ヨハネ自身はユダヤ教の世界で育った人物と考えられます。そ
れゆえ、見たことを書き記す時、ユダヤ教の知識を持って叙述することを常と
しているのです。
 ユダヤ教においては、地上の聖徒たちの祈りを聞いて、それは、贖いを求め
る祈りですが、それを神のもとに伝えるのは、天使長、大天使ミカエルの仕事
でした。大天使ミカエルがその祈りを直接聞くのではなく、クラスの下の天使
が聞いて、それをミカエルに伝えるのです。
 もちろん、伝えるだけですが、見者ヨハネが垣間見た天国では、大天使ミカ
エルの仕事をだれがしているのでしょうか。それが24人の長老の、神をほめた
たえることと共に与えられたもう一つの職務である、と考えられるのです。
 よって結論に参ります。
4つの生き物は、もともとケルビムですから、玉座におられる方をガードする
のが、本来の使命であり、礼拝においても、曲を奏でたり、香をたくことに
よって、礼拝の補助をします。カトリック教会における助祭の役割です。
 それに対し、24人の長老は、クリスチャンと世界との贖いが完成するように、
ひたすらひれ伏すのです。
 そこで、これから、天においても、「屠られたような小羊」としてのキリス
トの贖いの業が再現されることとなります。
 いや、贖いの業は既に完成されましたがゆえに、再確認されることとなりま
す。
 キリストの贖いの業とは何だったのか、次回確認いたしてまいりましょう。

(この項、完)



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