2020年11月22日
〔ヨハネの黙示録連続講解説教〕
第43回「ヨハネの黙示録5章7節」
(16/5/29)(その2)
(承前)
今日のテキストの主旨は、わたしも、皆さんも、そしてすべての読者がそう
受け取ったように、「屠られた『ような』小羊」であるイエスが、玉座に座って
おられる方(神さまのことです)の右の手から、その封印のしてある、贖われ
た者が救われるということが書いてあるはずの巻物を受け取った、というそれ
だけのことです。そして、「屠られた『ような』小羊」は、それをこれからど
うするのでしょうか。という期待と不安に読者は追い込まれる一文です。疑い
の余地なくそういう意味です。
しかし、唯一「進み出て」と訳されている語が気になるのであります。「進
み出る」と訳してしまいますと距離感はあいまいですが、原語は、「エルコマ
イ」という、ギリシア語を習い始めると、ほとんど初めに習う語です。「行く」
とも「来る」とも訳せます。それは文脈によって訳し分けられますが、要する
に、ある地点からある地点へ移動することを表わす語です。
ということは、「屠られた『ような』小羊」であるところのイエスは、ある
距離をたぶん歩いて(歩いたかどうかは分かりませんが)ともかく移動して、
神のもとに来て、巻物を受け取ったということになるのです。
そうしますと、前回結論を出した小羊の立ち位置はおかしい、ということに
なるのです。4つの生き物よりも神さまに近い位置にいたら、移動する必要は
ありませんものね。
そこで、私たちは、前回却下した、「屠られた『ような』小羊」は、4つの
生き物と24人の長老との間にいた、とする説を再検討する必要に迫られること
となりました。
問題は、6節の「玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、」と訳されて
いる部分です。原文をそのまま訳しますとこうなります。「間に、玉座のそし
て4つの生き物の、そして間に、長老たちの」となります。
常識的に読むと、新共同訳の訳と全く一緒ですが、「玉座と4つの生き物の
間、言い換えると、長老たちの間」と読めます。だから、「屠られた『ような』
小羊」は、「玉座と4つの生き物の間」におり、それは、同時に「長老たちの
間」にいる、ということになります。神さまと、4つの生き物と、長老たちの
配置図を思い出していただければ、間違ってはいませんよね。
ところが、「間に、」という語の繰り返しを、(言い換えではなく)ヘブラ
イ語表現である、と考えると、意味が全然違ってきます。たとえば「私とあな
たの間」ということを言いたいときに、わたしたちはそのように言いますが、
ヘブライ語では「わたしの間、そしてあなたの間」と表現する訳です。
もうお分かりですよね。ここがヘブライ語表現であるとすると、「屠られた
『ような』小羊」は、一方に「玉座のそして4つの生き物」がおり、一方に
「長老たち」たちがいるその間にいる、ということになるのです。
私、先週は、「玉座と4つの生き物の間」ということで、「屠られた『よう
な』小羊」は神に最も近いところにいた、と申し上げましたが、7節の新しい
事実、「移動」です、を突きつけられると、「屠られた『ような』小羊」は、
最初は4つの生き物と24人の長老との間にいた、のではないでしょうか。
いずれにしても「確定」はできないのですか、学者たちの説も分かれてはい
るのですが、天の国でも、「屠られた『ような』小羊」は、最初は御自身を
「謙遜」に位置付けられていたのではないでしょうか。
高く、近くに引き上げてくださったのは、神だ、ということです。
よく、自分の功績を誇り、偉くなろうとする人が、クリスチャンの中にもいっぱ
いいますが、イエス御自身は、天国に行ってもそうではなかった、らしい。
そのことを肝に銘じて、わたしたちも身を正してまいりたい、と思います。
(この項、完)
(C)2001-2020 MIYAKE, Nobuyuki &
Motosumiyoshi Church All rights reserved.