2020年11月15日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第42回「ヨハネの黙示録5章6節」
(16/5/22)(その2)
(承前)

 しかし、私たちは、その現れられた小羊のお姿の検討から入ってまいりま
しょう。
 まず、「屠る」という語についてですが、原語は「スファゾー」で、「殺す」
特に「屠る」という意味の語です。
 この語は、旧約聖書(七十人訳)ではたびたび用いられ、特に家畜を神に犠
牲としてささげるときに「屠殺する」意味で用いられてきました。
 たとえば創世記22:10、アブラハムが息子イサクを焼き尽くす献げ物として
殺そうとし時、この語が用いられています。
 新約聖書では、ほとんど用いられることのない語でしたが、(それは神殿礼
拝から距離を置き始めたので当たり前ですが)黙示録になって、再登場するこ
ととなりました。その一つが、イエスのお姿を描写する語としてです。
 イエスは、それはイエスの十字架をさしいると考えられますが、ちょうど、
旧約聖書で言う、神殿礼拝の時に焼き尽くす献げ物として献げられた小羊の姿
で現れられた、と言うことです。
 しかし、屠られ、焼き尽くす献げ物として献げられてしまったら、後には灰
しか残らないことになるわけですが、そうしますとここで「屠られたような小
羊」としてあらわれられたイエス様は「灰」だったのでしょうか。
 そうではありません、と思います。著者はここで「屠られた『ような』小羊」
と言っているのです。『ような』は原語では「ホース」という語で、英語で言
えば、「like」にあたります。屠られてしまったのですが、灰になってはいな
い、いかにも屠られたのだということがわかるお姿で登場してこられたのです。
 ここからは想像の域に入りますが、全身傷だらけ、血だらけ、しかし死んで
はいない、瀕死の状態であらわれられた、と考えるのが自然です。
 皆さんどうでしょう。天国のイエス様というと、白い衣の神々しいお姿を
(実際そのように描いている絵画が多いですが)想像しておられたかもしれま
せん。しかし、全身傷だらけ、血だらけの瀕死の小羊、とし現れられたのでし
た。
 びっくりかもしれませんがそれが、イエス様の本当のお姿です。(私たちの
贖い主でいらせられますから)
 しかし、天国でのイエス様の立ち位置は、中心でした。その意味でイエス様
は勝利者でした。「玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に」立っておられ
たのです。
 皆さま、天国での座席順を思い出してください。真ん中に玉座があって、そ
の次に四つの生き物がいて、そしてその外側に二十四人の長老がいたのです。
そしてイエス様は「玉座と四つの生き物の間」、四つの生き物よりも玉座に近
い位置におられたのです。
 最も、イエス様は、一方では玉座の上に、また他方では、四つの生き物より
も外におられたとする説もありますが、そしてそれはそれなりに根拠がある説
ですが、通説通り「玉座と四つの生き物の間」、四つの生き物よりも玉座に近
い位置におらたのでしょう。
 要するに、神に最も近い存在、いやそのものであった、ということが確認さ
れた、ということです。
 次の「小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わ
されている神の七つの霊である。」については、少し、すこしどころではない
かもしれませんが、想像を絶する表現ですが、角はサムエル記上2:10に見られ
るごとく、力の象徴です。また、「七つの目」については、ゼカリヤ書4:10で、
神が地上をくまなく見守るさまを表す表現として用いられています。ここは、
明らかに天でのイエス様が、神様と同じ働き、権能をお持ちである、という意
味です。
 ここがキリスト教の深いところですが、屠られたイエス様が、それがゆえ
に、強い権能をもっていらっしゃったのです。
 次回は、この小羊が進み出るところから始まります。

(この項、完)



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