2020年10月04日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第39回「ヨハネの黙示録5章1節」
(16/4/24)(その2)
(承前)

 まず、原語ですが、「ビブリオン」です。「小さな書物」という意味です。
ちなみに、「大きな書物」は何と言うかと言うと、「ビブロス」でして、これ
は「聖書=バイブル」の語源です。
 「小さな書物」と言っても漠然としていますが、具体的には、2つの可能性
が考えられます。それが、証書と巻物なのです。
 神さまの手のひらの上に載っていた、というあたりが証書らしい雰囲気を醸
し出していますが、更に、ギリシア・ローマの時代に証書は7つの封印をされ
ていた、という話を聞くと、わたしたちは、「証書だ」と思ってしまいます。
もし証書だとしたら、何が書いてあったのでしょうか。
 一番それらしいのが「負債証書」です。私たちが神の前で犯した罪がたらた
らたらたらと書き記されているのです。恐いですね。
 だとすると、今後の展開は、封印が一つ紐解かれるたびに、わたしたちの罪
が次々と暴かれ、厳しいお仕置きが待っていることとなります。
 その他、遺言状だ、離縁状だ、と考える人もいますが、いずれにしても、わ
たしたちには、将来はない。私たちを待っているのは、地獄の業火だけ、とい
うことになってしまいます。
 しかし、この後の展開を見ますと、それらしいところもありますけれども、
必ずしも裁きばかりではない。救いも示されているようですので、違う気がい
たします。
 そこで、私たちは、この「小さな書物」はもう少し良いことが書かれた「巻
物」であってほしい、と思う訳でありまして、実際ここでは「巻物」であった
とする説が採用されて翻訳では、「巻物」とはっきり言っているのです。
 でも「巻物」には、本当に良いことが書かれているのでしょうか。
実は、旧約の預言者エゼキエルが、見者ヨハネと同じように幻を見たときも、
神さまから巻物を与えられるという出来事がありました。(エゼキエル書2:9以下)
 その巻物には、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」が記されていました。
(2:10)しかし、それをエゼキエルが食べると(3:1)、力が湧いてきて、
力強く、イスラエルの民に悔い改めを迫ることとなったのです。
 つまり、この(エゼキエルの)巻物には、イスラエルの、救いと滅びの運命
が、運命という言い方はよくないですね、神の御計画が記されていた、という
訳なのです。ですから、ヨハネの黙示録で、神の右の手に置かれていた巻物に
おいても、世界と被造物の「運命」が記されていたに違いありません。
 詩編139:16に「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。」と記さ
れているように、旧約時代には、いや、ユダヤ教の時代になっても、この地上
での出来事は、すべて天上で記録にとられている、いや、記録どおりに進行し
ている、という考え方がありましたし、あります。巻物は、その「記録」と同
一物かも知れません。私は、天でわたしの存在が忘れられずにいるのは、あり
がたいことだ、と思うのですが、皆さまはどう思われるでしょうか。
 しかし、自分の歩みが、「運命によってきめられている」という考え方を
「いやだ」と思い、反発する方々もいらっしゃることでしょう。だって人間
は自由のはずですもんね。
 その思いは大切である、と思います。
が、その「運命」なるものが、このヨハネの黙示録においては、7節に出てく
るのですが、「小羊」の手に受け取られる、ということに注目していただきた
い、と思っています。
 「小羊」はキリストにして、贖い主です。私たちを自由にするために贖いの
業をなしてくださいました。その保障において、わたしたちは、自由となるべ
く運命づけられているのです。
 わたしたちは、自由となるべく運命づけられていることを覚えつつ、歩んで
まいりましょう。

(この項、完)



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