2020年09月20日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第38回「ヨハネの黙示録4章11節」
(16/4/10)(その2)
(承前)

 次に「ほまれ(ティメー)」という語についてですが、「栄光とほまれを与
える」とセットになって、神のみをたたえる意味となります。よって神に「栄
光とほまれとを帰す」ことは、両方合わせて神を神とすることとなるのです。
 ここまではいいのです。が、問題は「感謝(ユーカリスティア)を献げる」で
なく、「与える」ということです。
 「感謝を与える」とは、目上の者が目下の者になす行為です。神に感謝を与
えるというと、神が人間より目下であることとなってしまいます。これはいっ
たいどうしたことなのか。
 それは、ここには、神がイエス・キリストにおいて低くなられたという事実
が背景にあるのではないでしょうか。神はへりくだられ、「奴隷の身分になら
れ」しかも十字架にかかられたのです。ですから、感謝を与えるとは、ひくく
なられたキリストをほめたたえることなのではないでしょうか。しかし低くな
られた多こと自体は、神の栄光であったがゆえに、「神に感謝を与える」は、
逆説的ではありますが、その神に栄光を帰すことになったのです。
 こうして、(8節で)4つの生き物が与えた「栄光と誉れと感謝」を11節で
神は受けられました。
 しかし、生き物が与えたのが「栄光と誉れと感謝」であったのが、神が受け
取るときには、「栄光と誉れと力」に替わってしまったのはどうしたことなの
か。感謝を与えたはずなのに、受けたのは力であったとはどういうことなので
しょうか。
 神は、畏れ多くも神に感謝を与えたりした人間に反発して力で報いようとし
ておられるのでしょうか。そうではありません。神の力は、イエス・キリスト
のへりくだりにおいて、しかもそれが感謝でもって受け止められる時に、最も
大きな力を発揮する、ということなのではないでしょうか。なにしろ、罪人が
生きるのですから。
 そして、三行目は、『へりくだり』の力の源として、想像の業について触れ
られることになります。
 原文は、こうなっています。
「なぜならば、あなたはすべてを創造されたし、そしてすべてはあなたの意志
によってあって来たし、創造されたから。」
 とても変な文ですし、何を言いたいのか、意味不明の文です。
もしも、神は世界を創造されて、その御意志に従ってすべてのものがあるのだ
から、たとえどんな権力者であろうとも、神は従わさせることができる、とい
うことを言おうとしているのでしょうか。
 そうだとしたら、
「なぜならば、あなたはすべてを創造されたし、そしてすべてはあなたの意志
によってあって来たのだから」でいいわけです。
 しかし、文はそこで終わっていませんで、「創造されたから」と続いている
わけなのです。この「創造されたから」が訳が分からない。創造の後にまた創
造があったのでしょうか。
 そして、通説を言えば、ここは写本家の 間違いです。
しかし、私は、原文がこの通りであった、として受け取っていきたい、いや正
確に言えば、受け取ってみよう、と思っています。
 すると、二度目の「創造」は「再創造」のことを言っている、ということに
なります。
 「再創造」なんてあるのか、と思われるかもしれませんが、あるのです。ノ
アの洪水の後、神は世界を再創造されたのです。もちろんノア一家と、生き物
の主は生き残りましたから、全面的更新(リセット)が行われたわけではあり
ません。しかし、肉食というあたらしい秩序は生まれたのです。
 イエス・キリストの出来事も、神が人となられる、というまさに、それまで
の世界では起こりえない出来事が神によってなされたわけで、まさに「再創造」
に匹敵する出来事です。
 神は、一旦ご自分で造られた秩序をも壊されるということが可能性としてお
ありになることを示されていらっしゃるのではないでしょうか。イエス・キリ
ストの出来事はまさに、それでした。わたしたちは、そのイエス・キリストに
よって救われました。
 わたしたちも、24人の長老と共に、そこまでなさる神に賛美を献げるのです。

(この項、完)



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