2020年09月20日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第38回「ヨハネの黙示録4章11節」
(16/4/10)(その1)
11「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわ
しい方、あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造された
からです。」
本日の聖書箇所は、先週の続きで、24人の長老が、玉座に座っておられる神
を賛美して歌った、その讃美の内容となっています。
早速、中身に入っていきたいと思います。
ところで、「詩」というものは、散文と違って、語の並べ方次第で、意味が
違ってきてしまいます。
そこで、まず最初に、ギリシア語の原文を原文の順序に従って日本語に訳し
たものをご紹介しますので、新共同訳の、お手持ちの聖書と比較していただい
て、原文の意味をより深くつかんでいただきたい、と思います。
「あなたはふさわしい。主にして、わたしたちの神よ、栄光と誉れと力を受
け取るのに。。なぜならば、あなたはすべてを創造されたし、そしてすべては
あなたの意志によってあって来たし、創造されたから。」
いかがでしょうか。皆様も、ギリシア語原文を、お読みになって見られると、
その意味がより深まるか、と思われますので、チャレンジしてみてはいかがで
しょか。
この詩は三行詩ですが、最初の一行目に「神への呼びかけ」が出てきます。
そこから入ります。「新共同訳聖書」では、「主よ」と呼びかけておいて、そ
こで「あっ、そうだっけ。神よと呼んでいなかったっけ」ということに気が付
いて、「わたしたちの神よ」と改めて呼びなおした、というふうにとれます。
しかし、原文はそうではありません。「主にして私たちの神」という、これ
で一つの呼びかけである呼びかけで、神さまを呼んでいるのです。
神さまは畏れ多い方だから、きっとそんな呼び方もあるに違いない、と皆さ
ん思われるかもしれませんが、聖書においては、創世記の最初から、神の呼び
名は「神」か「主」のどちらかであって、「主にして神」という呼び方は一切
出てこないのです。
なんで黙示録のここにおいてだけそのような呼び方が出て来るのか、多くの
学者たちが頭を悩ませてきました。
そして、多くの学者が到達した結論が、ヨハネの黙示録の著者が、「ドミ
ティアヌス皇帝にあてつけたのだ」というものだったのです。
なぜならば、もうすでに皆さまお分かりでしょう。ドミティアヌス皇帝
(51〜96)は、皇帝礼拝を強要し、それに従わない、とされるキリスト教徒を
迫害したのですが、スエトニウスの「ローマ皇帝伝」によれば、彼は「我らの
主にして神」という称号で自らを呼ばせることを求めた、と伝えられているか
らです。
だとすると、著者は、ここで、本当の礼拝すべき方は、ドミティアヌスでは
なく、聖書の伝える神だよ、ということを言いたかったのだ、ということにな
ります。
このような読み方はどうでしょうか。間違いではないと思います。しかし、
ここは天上の礼拝の場面なので、神を冒涜する、した皇帝どもは、ドミティア
ヌスばかりでなく、歴史上うじゃうじゃいますので、この言葉がドミティアヌ
スだけを意識したものと考えるのは、ドミティアヌスを買いかぶりすぎ、名の
ではないでしょうか。古今東西を見回しても、本当に主にして神である方は、
どのような呼び方をしようと、この方のみである、ということを、長老たちは
伝えたかったのだろう、と思います。
よって、「新共同訳聖書」、2行目の「こそ」は意訳で挿入したことと思わ
れますが、「のみ」がよろしいのではないでしょうか。
それでは、その神はどういうお方か、何にふさわしいお方か、というのが本
文です。が、それは、被造物全体特に人間から、「栄光と誉れと力を受けるに
ふさわしい方」である、と言うのがそれです。神を賛美するにふさわしい言葉
と思われます。
しかし、もうみなさんお気づきと思いますが、この行は、8節で、4つの生
き物、ケルビムが、神に「栄光と誉れと感謝」を与えた、という出来事に対応
しています。だとすると、若干の問題が生じるのではないでしょうか。そこで、
8節を振り返ってみることといたしましょう。
まず「栄光を与える」ですが、特に新約になって、「栄光を与える」とは、
神を神とすることになりました。
(この項、続く)
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