2020年09月06日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第37回「ヨハネの黙示録4章10節」
(16/4/3)(その2)
(承前)

 では、なぜNO.2に過ぎない24人の長老が最初に、いきなり、まだ玉座の
描写の途中なのに、紹介されてしまったのか。
 それは、単なる自己紹介ではなく、神の国では24人の長老がNO.2にも拘
わらず、重要な働きをしているからだったのです。
 その働きとは何でしょうか。それは、ひたすら、神を賛美することのためで
した。
 と言うことで、ここで、24人の長老が順番通り、改めて紹介されて、何をし
ていたか、の実際が今日から来週にかけてのテーマです。
 それは、第一に「玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく
生きておられる方を礼拝し、」そして「自分たちの冠を玉座の前に投げ出して」
いました。
 ところで、「天における24人の長老」という考え方は、既に旧約聖書に登場
していたのではないか、と思われるかもしれませんが、実はほとんどありませ
ん。それらしいのは、列王記上22:19、イザヤ書24:23そしてヨブ記1:6だけです。
 その中で列王記上22:19は、神の左右にいる「天の軍団」でした。イザヤ書は
「天の長老」ですが、これは、イスラエルの長老の反映と思われます。イスラ
エルと同じように天にも長老制度があったのではないか、という考えです。
 最もそれらしいのは、4節の講解説教の時にも触れましたが、天において、
神さまを取り巻く天使集団で、「天の裁判官」ですとか、「天の閣僚」ですと
か、「天の国会議員」の役割をしている人たちのことでした。
 つまり、ユダヤ教徒の間では、天の神様の周りに「長老」がいるとはあまり
考えなかったが、いるとすれば、「えらい」人たちであって、人間を支配する
ためにそこにいる、と考えていたのです。
 しかし、私たちは、もうすでに神さまに支配されているのに、更に、「天の
長老」や「天の軍団」にも支配されているとすると、かなり厳しい支配のもと
にあることとなってしまいます。
 それが、黙示録によれば、24人の長老はただひたすら、「玉座に着いておら
れる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、」ていた
というのですから、旧約聖書の人々が想像していたのと、実はずいぶん違って
いることになります。
 「礼拝する」とは原語で「プロスキュネオー」ですが、「ひざまずく」の意
で、ひたすら自らを低くする行為です。それで、「礼拝する」という意味にも
なるのですが、マルコによる福音書によく出で来る言葉です。
 この人たちは謙虚なのです。
そして「自分たちの冠を玉座の前に投げ出して」さえいました。
 冠という語については、旧約聖書における頻出語であり、その後に特別の意
味を読み込むことは困難です。しかし、この語の本来の意味は、サムエル記下
12:30にも見られるごとく、「王が頭にかぶるもの」です。
 ですから、「自分たちの冠を玉座の前に投げ出す」という行為は、普通は、
戦争に負けて、降伏するときの行為なのです。旧約聖書の時代には、長老は
「冠をかぶるほど」偉かったのだが、今はそうではない、ということを示す象
徴行為であるかもしれません。長老たちは、今までは、神の威を借りて威張って
いました。しかし、今はそうではありません。冠を脱いだのです。
 さて、イエスは、地上では金の冠を被ることなく、「茨の冠」をかぶせられ
ました。もし、この長老たちが天にあって「イエスに従う者」「イエスに倣う
者」であるとするならば、彼らは、金の冠を脱いで、茨の冠をかぶる準備をし
たのではないでしょうか。
 長老たちは、そこまで、から「仕えられる者」「仕える者」に変えられたの
です。
 先ほど、ケルビムの「視線」のことを言いました。私たちのことを四方八方
から見ていてくれる、それはそれでありがたいことだ、と思いますが、それは
あくまでも、「視線」でしかない。私たちには、私たちの下にいて支えてくれ
る者が必要です。それを、神のそばにいて、しかも、してくれる、いやしてく
れているのが長老なのではないでしょうか。
 今日、私が踏みつけにしている人、その人こそ長老です。

(この項、完)



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