2020年08月23日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第36回「ヨハネの黙示録4章9節」
(16/3/13)(その2)
(承前)
しかし原文は、そのまま訳しますと、「(神に)栄光と誉れと感謝を与える
と」と書いてあるのです。
まず「栄光を与える」ですが、「栄光を与える(ディドーミ・ドクサ)」と
は、もともとは、相手に「敬意を表する」との意味の表現で、実際そのように
訳されております。(歴代下32:33)もちろん、人間が神に敬意を表する場合
も用いられ、(ヨシュア7:1など)その場合は「栄光を帰す」と訳されてい
ますが、神が人間に「栄光を与える(ディドーミ・ドクサ)」こともありまし
た。たとえば、ソロモン王が即位に当たり、神に「国を支配するに必要な知恵」
を願い求めたところ、神はソロモン王の謙虚さに感心されて、知恵ばかりでな
く、「富と栄光も与えられた(列上3:13)」とあります。人間にも与えられる、
しかも神から与えられるものだったのです。だとすると、そもそも「栄光」と
は大したものではなく、人間が神に対して与えたとしても、「敬意を表した」
=「頭を下げた」程度のこととなります。
ところが、今まで旧約聖書の例を言ってきたのですが、新約聖書になると事
情は一変します。「敬意を表する」という用例は消え、人間が「神に栄光を与
える」一辺倒です。こうなると、「栄光を帰す」という訳が最も適切というこ
とになります。新共同訳聖書の「栄光と誉れをたたえて」との訳は、協会訳聖
書と違う言葉を使ってみた、というだけでほとんど意味のない行為ですが…。
ついでですが、新約聖書でも、神が「人間」に「栄光を与える(ディドーミ・
ドクサ)」ことがありますが、その相手はイエスだけでした。つまり、新約に
なって、「栄光を与える」とは、神を神とすることになったのです。
次に「ほまれ(ティメー)」という語はおもしろい語で、「ほまれ」の他に
「代価」との意味もあります。イスカリオテのユダが受け取った銀貨30枚は
「血の代価(ティメー・ハイマトス)」でした。更に「誉れを与える(ディドーミ・
ティメー)」は人間に対しても用いられます。「栄光とほまれを与える」と
セットになって初めて、神のみをたたえる行為となるのです。よって神に「栄
光とほまれとを帰す」ことは、両方合わせて神を神とすることとなるのです。
ここまでは、よくお分かりいただけることか、と思います。問題は「感謝
(ユーカリスティア)を与える」ということです。「感謝(ユーカリスティア)」
という語は新約聖書で14回用いられていますが、「感謝をもって」とか「感謝
をささげる」という表現はあっても、「感謝を与える」という表現は、しかも、
「神に」「感謝を与える」という表現は、ここ、黙示録4:9を除いてはどこ
にもありません。それで、翻訳者たちは、黙示録の著者の「間違い」ないしは
「言葉足らずだろう」と考えて、「感謝をささげる」と訳してしまったのです。
人間が神に「感謝をささげる」ならともかく、「感謝を与える」とは畏れ多
い。「感謝」は、人間が神に献げるべきものであって、神は感謝しない。その
ように考えて、あえて「感謝をささげる」と原文と違うことを書いてしまった
のかもしれません。
しかし、原文はあくまでも「感謝を与える」であって「感謝をささげる」で
はないのです。
では、「感謝を与える」とはどういうことなのか。
ここから先はどの注解書も言っていないことなので、私の仮説でしかないので
すが、私は、黙示録の著者が、ここで「喜ぶ神」という、新約聖書にそれまで
ない、いや、新約どころか聖書全体にない「新しい考え方」を提示したのでは
ないか、と考えているのです。感謝を与えるとは神に喜びを与える、gratify
との意味です。
詳しい説明が必要ですが、私自身もまだ煮詰まっていない考え方なので、ポ
イントだけ申しますと、神はイエスにおいて、そこまでへりくだられた、人間
と平等になられたということです。「感謝される立場」から「人間と平等に共
に喜ぶ立場」へです。「奴隷の身分になられた」というのもそういうことを
いっているのではないでしょうか。
よって、「奴隷の身分になられた」こと自体が、神の栄光でした。「神に感
謝を与える」は、逆説的ではありますが、その神に栄光を帰すことになるので
す。
(この項、完)
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