2020年07月26日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第34回「ヨハネの黙示録4章7節」
(16/2/21)(その1)
(承前)

 最初にこの解釈を持ち出したのは、イレナエウスです。マタイによる福音書
は、人間の系図をもって始まるから人間。マルコによる福音書は、短く、終わ
りへ向かって急いでいるから鷲。ルカによる福音書は、祭司的性格を持ってい
るから雄牛。ヨハネによる福音書は、キリストの王的性格を表わしているから
獅子、。という訳です。その後、ヴイクトリヌスは、マルコによる福音書とヨ
ハネによる福音書を入れ替え、アウグスティヌスは、獅子をマタイによる福音
書、人をマルコによる福音書、と全く違う解釈をし、牛は、他の二人が言うと
おり、ルカによる福音書、鷲は、ヴイクトリヌスの言うとおり、ヨハネによる
福音書と、しています。絵画では、ヴイクトリヌスの解釈が定着しているよう
です。
 それぞれに理由があって意味深い解釈ではあるのですが、黙示録の四つの生
き物はそもそもはケルビムであって、見者ヨハネは、エゼキエル書のケルビム
を踏まえて書いている、ということがすっかり抜け落ちていますので、これは、
見者ヨハネがわたしたちに伝えたかったであろうこととは違います。エゼキエ
ルのケルビムはこうでした。
 エゼキエル書1:6〜11「それぞれが4つの顔を持ち、4つの翼を持っていた。
脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように
光を放っていた。また、翼の下には4つの方向に人間の手があった。4つとも、
それぞれ顔と翼とを持っていた。翼は互いに触れ合っていた。それらは移動す
るとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。その顔は人間の
顔のようであり、4つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして4つとも後ろには
鷲の顔を持っていた。顔はそのようになっていた。翼は上に向かって広げられ、
2つは互いに触れ合い、ほかの2つは体を覆っていた。」
 エゼキエルのケルビムにおいては、四つのケルビムが皆、人、獅子、牛、鷲
の四つの顔を持っていたのです。
 もともと幕屋や神殿に設置されていた、あるいは模様に彫り込むまれたり、
織られていたケルビムがどのような姿であったのか、実物は残っていませんし、
出エジプト記や列王記の記述も当たり前のこととして書いてくれておりません
ので、分かりません。しかし、「人間の顔を持つ翼のある動物の像」であった
というのが定説です。
 だとすると、エゼキエルのケルビムは、人の顔に、獅子、牛、鷲の顔を付け
加えたものということになります。獅子や、牛や、鷲は、単独でも大変に強い
動物です。それらが合体し、しかも人と合体したら、百人力、万人力なのでは
ないでしょうか。
 エゼキエルのケルビムが人、獅子、牛、鷲の四つの顔を持っていたというこ
とは、強さの象徴であり、逆に、神はその力の強いものさえ従わせる、まさに
「万能」であるしるしだったのではないでしょうか。
 一方、見者ヨハネが見たケルビムは、それぞれが、人、獅子、牛、鷲の顔を
持つということでした。これでは、パワーという点では、激減です。それでは、
見者ヨハネが見たケルビムは何のためにそこにいたのでしょうか。いるので
しょうか。
 ここで私は、反対論もあるのですが、占星術の影響を考えない訳にはいかな
い、と思います。
 占星術では、天を十二宮に分けるのですが、その中、季節を導入するのは、
牡牛、獅子、さそり、水かめです。さそりは人の顔を持っている、と考えられ
ていたので人と置き換えられます。つまり、水かめだけは違うのですが、そし
て、この点については、違いを説明する諸説があるのですが、この四つの生き
物で、季節を支配していた、とも考えられるのです。
 また、バビロニアの占星術においては、さそり、獅子、牛、鷲は、地の四つ
の元素、すなわち、水、火、地、空を表わしておりました。だとすると、四つ
の生き物は、地と空とすべてに目を光らせていることになります。
 目をもってすべての教会に警告と、そして慰めを与える「守り神」としての
役割を担っていた見者ヨハネが見たケルビムにおいては、四つの生き物が、そ
ういう意味で、人、獅子、牛、鷲の顔を持つことはふさわしいことだったので
す。
 ここにおいても、見者ヨハネが垣間見た天国においては、裁きよりも慰めが
優先しているのであります。

(この項、完)



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