2020年06月28日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第31回「ヨハネの黙示録4章5節」
(16/2/7)(その2)
(承前)

 さて、以上3節の描写を確認したうえで、5節に参りましょう。

5節「玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、
七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。」

 まず、「稲妻、さまざまな音、雷」です。これは、エゼキエル書のみならず、
旧約聖書において、しばしば神が直接お顕れになられるときの表象として、私
たちもよく知るところです。
 ヨブ記においても、神は嵐の中において、最後にヨブに御自身をお示しにな
られました(38:1)。また、出エジプト記においても、主がシナイ山に降られた
とき、雷鳴と稲妻と厚い雲とが、山を覆いました(19:16)。神が来られるという
ことは、まず、裁きに来られるのですから、人は恐れを持って受け止めざるを
得ないのです。そのことがこれらの表現において示されているのです。そして、
見者ヨハネが見た「天国」においても、神はまず「そういうお方」でいらした
のです。
 そして、その次に、玉座からしてその外側に見たのが、7つのともし火でし
た。7つのランプです。
 これは何でしょうか。これは、旧約聖書にはない表現です。
「7つのともし火」と聞いて、私たちは、すぐに黙示録1:20、天上のイエス様
が持っていらした「7つの燭台」を思い出さねばなりません。「燭台」と「と
もし火」は違います。ユダヤでは、燭台の上に7つの枝が出ていて、それぞれ
の上にともし火皿があり、その上にともし火がともされるのです。しかし、
ともし火皿は燭台の枝です。
 1:20では、7つの燭台は「7つの教会」と説明されていました。それは全教会
と言う意味であり、当時は本当に7つの教会がありました。
 しかし、後に、それぞれの教会の枝が出て、たくさんの教会が、ちょうど、
燭台に対するともし火皿のようにです。これは、玉座の前に「ともし火皿」が
あったということは、神は全教会を裁かれる、との意味なのではないでしょう
か。この場合も「7」は完全数なので、本来でしたら、七の何十倍と言うこと
に成るのでしょうが、『七』ですべてが表わされているのです。神は全教会を
裁くのです。
 そしてその後黙示録は直ちに、「これは神の七つの霊である」と注釈を加え
ています。七つの教会に、神の七つの霊が遣わされて、裁きと励ましが与えら
れたように、七の何十倍にもあたるすべての教会に神が霊を遣わして裁かれる
約束がここでさりげなく、披露されたのです。
 さて、今日のテキストはそこまでなのですが、次の6節の前半は、玉座の様
子の描写が続いています。6節の前半で、玉座の様子の描写は終わりますので、
今日触れておきたい、と思います。

 6節前半「また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。」

これはいったいどういう意味でしょうか。「ガラスの海」という表現は、旧約
聖書にも、新約聖書にもどこにもなく、見者ヨハネはいったい何を見たのだろ
うか、と長い間皆が頭を抱えてきた問題でした。しかし、第二エノク書という
書が見つかり、そこに「天にぶら下がっている海」という表現が出ていたこと
によって、これが創世記1:7に言う「大空の上の海」であることが分かった
のです。
 古代においては、創世記の著者も、見者ヨハネもすべて含めて、雨の仕組み
を知りませんで、「天の海」の存在を信じていました。天の海の「漏水」が雨
だ、という訳です。
 その海が本当に天にあった。「ここは本当に天なのだ」という見者ヨハネの
驚きが、このレポートに表わされているのです。
 もちろん、現代の知識からすると、「おかしい」ところも多々あります。し
かし、当時の知識、伝統を総動員して、見者ヨハネは、「天国とはこういうと
ころだ」と伝えていてくれるのです。
 そこは、神のみ力が行き届き、そして、教会を通して、この世への裁きも行
き届いているところです。
 この「天国」で、終末の時に何が裁かれようとしているのか、見者ヨハネを
通して、私たちも厳しく受け止めてまいりましょう。

(この項、完)



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