2020年06月14日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第30回「ヨハネの黙示録4章4節」
(16/1/31)(その2)
(承前)
4節「また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を
着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。」
これから、玉座の周りの描写に移ります。
最初に紹介されるのが、24人の長老でした。
本当は、3節で、玉座に座っておられる方の様子、そして、その周りに虹があ
ることが触れられていましたので、次は、5節にあるように、音、そしてとも
し火、そして6節にあるように、玉座の前の様子、と、物の描写につながって
行くのが自然か、と思われます。
つまり、玉座→虹と音→7つのともし火と水晶に似たガラスの海、まで、全
体が玉座なのです。
これら一つ一つについては、次週から丁寧に触れていきますが、その次に初
めて、玉座を取り巻く生き物が登場し(6節)、しかもその最初は、「4つの
生き物」で、24人の長老はその次のランクでした。(10節)
つまり、24人の長老は、玉座を取り巻く生き物としては、NO.2でした。
残念ながら、NO.1ではありませんでした。
では、なぜNO.2に過ぎない24人の長老が最初に、いきなり、まだ玉座の
描写の途中なのに、紹介されてしまったのか。
それは、聖書学的に言うと、著者が後から挿入した、ということになるので
すが、では、なぜ著者は後からそのような挿入をしたのか、そこが問題なので
す。
それは、単なる自己紹介ではなく、てんごくでは24人の長老がNO.2にも
拘わらず、重要な働きをしているからなのではないでしょうか。
その働きとは何でしょうか。それは、私たちが想像するように、「天の裁判
官」ですとか「天の閣僚」ですとか「天の国会議員」だとかいうことではなく、
ひたすら、神を賛美することのためにそこにいたのです。
天上の様子というのは、先ほども申し上げましたように、通常の状態では見
ることはできません。死に際、そして聖霊に導かれたうえで、夢ではなく、幻
において見るのみです。
しかし、物語において、今、天があるとしたら、という想像として、天の様
子が描写されることが許されています。それがヨブ記です。
ヨブ記の冒頭は、実は、ヨブ自身の物語ではなく、「天における会議」の様
子の描写から始まります。
天使たちが、神を囲んで会議をしているのです。議題はヨブです。神はヨブ
のことを、「地上に彼ほどの人はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を
避けて生きている(ヨブ記1:8)」と褒め称えるのです。
すると、天使の一人であるサタンが「ヨブが、利益もないのに神を敬うで
しょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。
彼の手の業をすべて祝福なさいます。お蔭で、彼の家畜はその地に溢れるほど
です。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と
向かってあなたを呪うに違いありません。」と言います。
残念ながら、サタンの言うとおりであります。人は、たとえ神に従うと誓って
いたとしても、実は、打算からそうしている場合があるのではないでしょうか。
そしてしばしば、打算のゆえに、平気で、神と人とを裏切るのです。
ですから、今、天があるとしてですよ、サタンのような告発者と、そして天
上での会議、それは「天の裁判所」であり、「天の内閣」であり、「天の国会」
が必要になってくるはずなのであります。
そうしないと、神の正義は守られません。
ところが、見者ヨハネが見ることを許された「天国」においては、確かに、
「天使」に匹敵する、あるいはそれ以上と考える人もいますが、「白い衣を着
て、頭に金の冠をかぶった」というそういう「人」がいますが、ヨブ記のよう
な、「裁判」もしなければ、「行政」もしなければ、「立法」もしない。ただ
神を賛美するだけなのです。
なぜなのでしょうか。それは、今ではなく、「この後必ず起こる(1節)」神
の国においては、神の支配が行き届いている、と言うことなのです。「裁判」
も「行政」も「立法」も必要ない、ということなのです。
もちろん、これは終わりの時の望みでしかありません。今は「裁判」も「行
政」も「立法」も必要です。しかし、「望み」をもって歩む、ということが、
「神の右に座し」と告白することによって、私たちの日々の歩みの中で可能と
なる、このことを、今日覚えつつ、歩んでまいりましょう。
(この項、完)
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