2020年06月07日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第30回「ヨハネの黙示録4章4節」
(16/1/31)(その1)
4節「また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を
着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。」
4章から、天国の描写が始まりました。
ところで、天国と言うと遠い世界のように思われるかもしれませんが、実は、
私たちは毎主日の礼拝において、よみがえられて、天に昇られたイエスが「神
の右に座し」と告白しているのです。
ところが、これはハイデルベルク信仰問答の学びにおいて学んだことですが、
天に昇られたイエスが「神の右に座し」ているのを、だれも見た者はいないの
です。イエスの一番身近にいた12弟子も、イエスが天に昇って行かれるのを見
たのが、最後でして、天上でイエスがどうしておられるのか、また、天国がど
うなっているのか、だれも知らないのです。福音書の記述を見ても、どこにも
そのことは記されていません。
なのに、私たちが、信仰告白で、「神の右に座し」と告白しているのはどう
してなのか、と言えば、それは、エフェソの信徒への手紙1章の20〜23節に見
られるごとく、弟子たちの「信仰告白」なのです。十字架において、罪の贖い
を成し遂げ、悪の力に打ち勝たれたイエスは、今天上において、神と共に、こ
の世界を支配しておられるに違いない、という信仰告白なのです。
しかし、「違いない」だけでは、この信仰はおぼつかないわけでして、神は、
二人の人に特例として、天国を垣間見、そして、特に天上のイエスが告白どお
り、この世界を支配しておられる様を見させてくださったのです。
それが、ステファノと、見者ヨハネでした。
ステファノは、エルサレムで殉教しました(使徒言行録7章)。しかしその死の
間際、聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエ
スとを見ました。そして、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるの
が見える」と言ったのです。(55節)
死の直前の数秒のことだったかも知れませんが、天国を垣間見る特権、とい
うか祝福が与えられたのです。
見者ヨハネについては、先週申し上げました。なぜ、よりによって見者ヨハ
ネに、たとえ幻であるとはいえ、「天国」を垣間見る特別許可が下りたのか、
と言えば、1章の9節に記されているとおりです。
「わたしは、あなたがたの兄弟であり、ともにイエスと結ばれて、その苦難、
支配、忍耐に与っているヨハネである。」
後に、ヨハネの黙示録における「忍耐」という言葉の深い意味について、3
章の10節から学びましたけれども、それは、殺戮と迫害が吹き荒れる終末を前
にしての悪魔の抵抗が吹き荒れる中での忍耐でした。見者ヨハネは、少なくと
も、「死」の危機と向き合わせの迫害の中にあった、それが第一の理由です。
迫害の嵐の中で、忍耐を強いられるものに、神は天国を垣間見る特権を与えて
くださるのです。
しかし、見者ヨハネの場合はそればかりではありません。「わたしは、あな
たがたの兄弟であり、ともにイエスと結ばれて、」とあるように、迫害にあっ
て苦しんでいる教会の兄弟として、それらの教会の代表として、天国を幻のう
ちにではあるが見て、そのレポートを伝える使命を託されていたのです。それ
によって諸教会を励ますためです。
私たちの教会においても、私たちの教会の受けた苦難を、「忍耐」として受
け止める時に、私たちにも、「天国」を垣間見させていただくチャンスがある、
ということを申し上げました。しかし、そればかりではなく、慰めとして受け
取るとともに、見者ヨハネのレポートを受け入れて、神こそが世界の真の支配
者である、との信仰を、より確かなものとしていきたいものだ、と思います。
さて、前回は、幻の中ではありますが、天に上げられた見者ヨハネが最初に
見たものが、玉座と、そこにおはします方であったことを学びました。
あくまでも、天においては、神が王であられること、が確認されているのです。
今日は、その神が本当に世界の支配者なのだろうか、という点について学んで
まいりましょう。
(この項、続く)
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