2020年05月31日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第30回「ヨハネの黙示録4章1〜3節
(16/1/24)(その2)

 ですから、私たちは、この迫害を「忍耐」として受け止める時に、私たちに
も、「天国」を垣間見させていただくチャンスがあるのではないでしょうか。
 しかし、私たちが、この出来事を「忘れさろう」とするならば、「生ぬるい」
教会以下の堕落、イエスの戸をたたく音に、決して耳を傾けようとしない教会
が、私たちの教会の将来の姿です。
 それでは次に、この幻の信ぴょう性の問題、本日の本題です。
「そして、ラッパが響くように私に語りかけるのが聞こえた。あの最初の声が
言った。「ここへ上ってこい。この後必ず起こることをあなたに示そう。」わ
たしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられて
いて、その玉座の上に座っている方がおられた。その方は、碧玉や赤めのうの
ようであり、玉座の周りには、エメラルドのような虹が輝いていた。」
 この世的基準ではありますが、叙述が丁寧であるかどうか、が信ぴょう性、
「本当に見たかどうか」を示す基準になる、と思われます。
 最初に、1章10節と同じように、見者ヨハネは、天からの声を聞きます。こ
の声については、後に小羊(イエス)の即位の場面が出て来るので、1章10節と
は異なり、イエスではない、とする説が、もはや通説と言えるほど、広く通用
していますが、ちがう「人物」の声とする根拠はどこにもなく、イエスである、
と考えてなんら差支えない、と私は考えています。
 幻を見るには、ガイドが必要で、ガイドが信用、いや真実の信頼ができなけ
れば、その幻は真実ではないのです。
 その声に導かれて、見者ヨハネは、「ここへ上ってこい。」と言われました。
今、見者ヨハネは地上にいるのです。地上にいる限り、たとえ幻であるとして
も、「天国」を垣間見ることはできません。もし見えるとしたら、それは単な
る思い込み、「夢」にしかすぎません。地上を離れて、天に上げられて、初め
て、「霊」の世界に触れることができるのです。
 それゆえ、次のひと言、「わたしは、たちまち“霊”に満たされた。」は、
エゼキエル11:1のように、“霊”が見者ヨハネを天に引き上げた、とも考えら
れますし、あるいは、天に引き上げられた見者ヨハネが、「“霊”に満たされ
た」、すなわち、天上の人となった、とも解釈できます。どちらでもいい、と
思います。最悪の解釈は、「見者ヨハネがトランス状態、恍惚状態になった」、
とするもので、見者ヨハネは地上で「夢」をみただけ、ということになってし
まいます。幻とはいえ、「天に行った」ことが大事なのです。
 そこで彼が真っ先に見たものは、「天の玉座」でした。
 ここのところが、今日の箇所のメイン、主題であります。
3章12節、迫害に遭っているサルディス教会にちらっと見せられた天国のイ
メージは何でしたでしょうか。そう、「新しいエルサレム」でした。「エルサ
レム」と言えば何でしょうか。神殿です。ユダヤ教では、伝統的に「天国」の
イメージとは「神殿」、具体的には至聖所、「見えない神」のおはしますとこ
ろ、だったのです。
 それが、玉座とは、あまりにも世俗っぽいのではないでしょうか。エルサレ
ムにおいて、王と言えば、ヘロデ大王であり、その玉座は権力欲と、性欲とに
満ちた、汚らわしいものでした。神はそんなに「汚らわしい」お方なので
しょうか。
 いいえ、ここには、神のおはしますところをあえて「玉座」とすることによ
り、神の大切なメッセージが込められているのです。神は、「救済者」であら
れると同時に、この世の「支配者」であられるということです。
 しかし、このメッセージは容易には信じがたいものです。この世のどこに、
神が支配者であるしるしがあるのでしょうか。悪が蔓延し、いや、だれも、
「悪が蔓延している」と気づく、思うことすらなく、教会の中においても、い
やおいてさえ、「悪が蔓延している」どころか、最大の悪が行なわれているで
はないですか。
 しかし、聖書は、黙示録は「神は支配者だ」と言い張るのです。そしてその
とおりなのです。
 どうしてそう言えるのか。そのことの内実をこれから見ていくことといたし
ましょう。

(この項、完)



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