2020年05月24日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第30回「ヨハネの黙示録4章1〜3節
(16/1/24)(その1)

1〜3「その後、わたしが見ていると、見よ。開かれた門が天にあった。そし
て、ラッパが響くように私に語りかけるのが聞こえた。あの最初の声が言った。
「ここへ上ってこい。この後必ず起こることをあなたに示そう。」わたしは、
たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、そ
の玉座の上に座っている方がおられた。その方は、碧玉や赤めのうのようであ
り、玉座の周りには、エメラルドのような虹が輝いていた。」

 また、講解説教に戻ってまいりました。
実は、この講解説教も、前回のところで、大きな区切りを終え、本日のところ
から新たなセクションに入って行くところなのであります。
 今まで、七つの教会への手紙を読んでまいりました。それは、この世にある
実際の教会でした。どの教会も、私たちの教会に似ているところがありました。
迫害に遭っている教会もありました。しかし他方で、前回まで学んできたラオ
ディキア教会が典型でありましたけれども、「熱くも冷たくもない」すなわち、
熱心に求めるべきことに対して、熱心に求めず、はっきりと拒否すべきことに
はっきりと拒否せず、「生ぬるい」、つまり、神と富とに兼ね仕える、という
よりは、神よりも富に惹かれている教会もありました。
 しかし、私たちの固定観念のように、迫害に遭っている教会こそ「神の国に
近い」、すなわち終末の救いに与れる、のかと言うと、そう単純ではなく、ラ
オディキア教会への手紙の最後にあったように、イエスは、今も戸口に立って
たたいておられる。それゆえ、今そのみ声に聞き、戸口を開けて、イエスと共
に食事をする者は、神の国の饗宴に与るのである。そして、そればかりでなく、
その者は、イエスの玉座に座らせられる、永遠の命に入れられて、主と共にあ
る、と言うのです。
 私たちの将来は決定されてしまっているのではなくて、そう考えると、私た
ちは落ち込まざるを得ませんが、今、み声に聞き従うか、が絶えず問われてい
る、ということであります。
 聞き従いましょう。
で、次の課題として、それでは、その「神の国」、「天」は、つまり「天国」
はどうなっているのか、という問いが生じるのであります。
 これは、今、「見せかけ」の幸福に満足している人、生ぬるい人にとっては
どうでもよい問題かもしれませんが、今忍耐を必要としている、すなわち死者
の出る迫害を体験している教会にとっては、近々の課題です。
 そこで、見者ヨハネが、特別許可を得て、「天国」を垣間見ることが許され
た、と言うのが、ヨハネの黙示録4章以下の内容であり、そしてヨハネの黙示
録の「本体」なのであります。
 今日は、その最初の場面であり、見者ヨハネが、「天国」を垣間見ることに
なったいきさつと、この「幻」の信ぴょう性といった問題をめぐって考えてい
きましょう。
 まずいきさつです。
1節「その後、わたしが見ていると、見よ。開かれた門が天にあった。…」
なぜ、よりによって見者ヨハネに、たとえ幻であるとはいえ、「天国」を垣間
見る特別許可が下りたのでしょうか。
 その理由は、1章の9節に記されていました。「わたしは、あなたがたの兄
弟であり、ともにイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐に与っているヨハ
ネである。」
 後に、ヨハネの黙示録における「忍耐」という言葉の深い意味について、
3章の10節から学びました。それは、単なる徳としての忍耐に止まるものでは
なく、殺戮と迫害が吹き荒れる終末を前にしての悪魔の抵抗に対する忍耐でし
た。見者ヨハネは、少なくとも、「死」の危機と向き合わせの迫害の中にあった
のです。
 と言うことは、少なくとも、迫害に遭っている教会は、見者ヨハネと同じく、
「天国」を垣間見させていただく特別許可に最も近い距離にある、ということ
なのであります。
 それはそうでしょう。「見せかけ」の幸福に満足している教会、生ぬるい教
会には、神さまが特別許可を与えてくださったとしても、興味も示さないで
しょうし、それはむだに終わるのでないでしょうか。
 私たちの教会は、どこにいるでしょうか。
先日安部先生と30年ぶりにお会いし、彼は、自分の体験の大筋を説教の中で
語ってくださいましたが、私は、元住吉教会の通って来た苦難を、迎えの車の
中でかいつまんで話しました。
 それは黙示録的迫害だった、と言うことです。

(この項、続く)



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