2020年05月17日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第29回「ヨハネの黙示録3章20〜22節」
(16/1/10)(その2)
(承前)

 そのイエスが来られるのだとすれば、それは何のためでしょうか。第一に考
えられるのは、それは、ラオディキア教会の教会員が本当に中途半端な信仰を
乗り越えることができたのか、本当にイエスのために金を放出したのか、
チェックしに来る、ということです。それ以外考えられないでしょう。よって、
「私がラオディキア教会の教会員だったとしたら」できるだけ来てほしくない
し、できるなら、決して来ないでほしい、と思いますが、皆さまはどうで
しょうか。
 しかし、イエス様は本当に来られるのでしょうか。それは、警告にしか過ぎ
ないのではないでしょうか。
 実は、ティアティラ教会にも(2:25)、サルディス教会にも(3節)、イエス
が「行く」と書かれていました。チェックのためです。
 しかし、それは、接続法という語法が使われ、ティアティラ教会とサルディス
教会の場合には、本当は行くか行かないか分からない話、警告に過ぎませんで
した。
 ところが、ラオディキア教会への手紙においては、「立って」は現在完了形、
「たたいている」は現在形で書かれており、どうもイエス様は本気で来られる
ようなのです。困りましたね。
 しかし、イエス様が「本気で来られる」と言われるのならば、私たちは、そ
れをどう受け止めたらよいのでしょうか。
 ところが、フィラデルフィア教会にも、「わたしは、すぐに来る(11節)。」
とイエスは言われました。現在形でした。本気でした。しかし、それは、
チェックしに来られるイエス様ではなく、そこには、終末の時にイエス様が本
気で来られて、そして祝福を与えてくださる、その祝福が知らされておりまし
た。
 ラオディキア教会の教会員にも、天上のイエス様は「同じこと」、中途半端
な信仰しか持てず、「神と富とに仕える」というよりは「神よりも富に仕えて
いる」ラオディキア教会の教会員、というより私たち、そして、イエスのため
に金を放出する厳しい訓練を受けざるを得ない私たちにも、「もう、お前はだ
めだよ」という失格宣言を告げるためにこの世に来られるのではなく、そんな
私たちにも、祝福を告げるためにこの世に再び来られる、それが終末だよ、と
いうことを告げておられるのです。
 しかし、そのようなことがあるのでしょうか。既に迫害に遭い、忍耐を強い
られてきたフィラデルフィア教会に終末の祝福が与えられることならわかりま
す。しかし、ラオディキア教会の教会員には、フィラデルフィア教会と比べて、
終末の祝福を予知されるだけのコは何もないではないですか。なのに、なぜラ
オディキア教会に終末の祝福が告げ知らされたのでしょうか。
 この点に関して、つまり20〜21節について、佐竹明氏は、画期的な解釈を出
されました。
 今まで、20節の、そして21節のイエスの到来が、現在のことであるか、ある
いは終末のことであるか、については、たくさんの、そして激しい論争が行な
われてきました。しかし、20〜21節がラオディキア教会宛の手紙の一部である
ことを疑う者はいませんでした。
 しかし、佐竹明氏は、この部分は、7つの教会への手紙の締めくくりとして、
「全教会にあてたメッセージだ」と解釈されるのです。
 もしそうだとすると、7つの教会はそれぞれの問題と課題とをかかえていま
した。フィラデルフィア教会の教会のように、迫害をかかえて、神の国に最も
近い、と考えられる教会もありました。一方、ラオディキア教会のように、富
の力が圧倒的に優勢な教会もありました。しかし、そのすべてにおいて、「私
の声を聞いて戸を開ける者」については、「だれか」すなわち誰でも、神の国
の食卓に共に与り、イエスと共に玉座に着く可能性がある、と言う言葉をもって、
すべての教会への手紙を締めくくった、ということに成ります。
 佐竹説が正しいかどうかはともかくとしても、神の国には最も遠そうなラオ
ディキア教会に最も豊かな祝福の約束が与えられていることは確かです。そこ
まで、神さまは、私たちの思いもかけない祝福を用意していてくださるのです
から、私たちは、主の訓練を甘んじて受けるべきなのではないでしょうか。

(この項、完)



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