2020年05月03日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第28回「ヨハネの黙示録3章18〜19節」
(16/1/3)(その2)
(承前)

 ゆえに教会員は、従わねばなりません。そして、その内容は、かなり厳しい
ものでした。
 しかし、ラオディキアの教会員はなぜ「パラカレオー」ではなく、「スュム
ボーレオー」されねばならなかったのでしょうか。それは、あからさまには書
かれていないので、推測ではありますが、彼らが単に中途半端な信仰を持って
いたに止まらず、その中途半端さの原因として、「神と富とに仕えていた」か
らです。そう考えて、これからの文章が初めて筋が通ります。
 「小さい者」を受け入れなければならない、ということは分かっていても、
損得を考えると、しばしばやめてしまうのです。小さい者への愛は見返りがあ
りませんから。なぜ、受け入れてはならない権力に媚びてしまうか、と言えば、
自分の富(地位や立場も含めて)が失われるのを恐れるからです。権力に抵抗
するには、地位や立場を失う覚悟がなければできません。
 そうやって、受け入れるべきものを受け入れず、受け入れてはならないもの
を受け入れることによって、中途半端な信仰、神に対して富まない信仰へと転
落していくのです。これは、まさに私たちのことであります。
 どうしたらいいか。話は簡単です。富を神のために放出すればよい。しかし、
富を放出することは並大抵の意志ではなし得ませんので、天上のイエスは、命
令という形で、富の放出を命じられるのです。
 まず第一に、「裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うよう
に」との指示です。
 イエスの言われる「火で精錬された金」がどんな金か分かりません。あなた
が持っている金の飾りに比べたら、大変に粗末なものかもしれない。でも、そ
れを買うために金を出せ。
 次に、「裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買え。」との指示
です。「白い衣」とはどんな衣なのか。あなたの着ているブランド物のデザイ
ン衣装からすれば、きっとぼろきれでしょう。でも、それを買うために金を放
出しないと、あなたの「裸の恥(人間の罪がさらけ出された姿)」は隠せませ
んよ、とイエスは命令するのです。
 そして最後に、「見えるようになるために、目に塗る薬を買え。」と命令す
る。前回言ったように、ラオディキアには、医学校まであって、高価な目薬を
リッチマンは持っていたはずです。でもそんなのではだめ。一見お粗末かもし
れない、いや、でしょう、イエスの処方する薬を金を出して買うことによって、
イエスのみ心が見えるようになるでしょう。
 もうお分かりのとおり、ここは「金を出させる」ことに意味があるのです。
しかし、これはなかなか難しいことです。なぜなら、私たちは、実は、「神と
富とに仕える」のではなく「神よりも富に仕えている」からなのではないで
しょうか。よって、私たちは、命令という形でなければ、決して富を放出しな
い事でしょう。
 18節と19節は、一見するとつながらないように見えるかもしれません。しか
しそうではありません。18節がイエスの、そして「アーメンである方、誠実で
真実な証人、神に創造された万物の源である方(14節)」の真摯な求めである
ことが19節で明らかとなるのです。

 「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。
悔い改めよ。」

 イエスが愛する者に命令するのは、金を放出しろというのは訓練のためです。
「神よりも富に仕えている」者をも見棄てたわけではありません。
 しかし、訓練には答えねばなりません。よってここでは、神の愛は条件付き
です。日本語に翻訳してしまうと分からないのですが、19節の「愛する」は、
原語は「アガペー」ではありません。「フィレオ―」です。「フィレオ―」は
普通は「神の愛」には使われません。無条件の愛ではなく、相手次第の愛です。
神は様子を見ておられるのです。
 しかし、この厳しい訓練に答えるならば、つまり、「悔い改め」と「熱心な
求め」をもって答えるならば、神は真実な方ですから、イエスも真実な方です
から、決して裏切られることはありません。
 究極的には、私たちには「神と富とどちらに仕えるのか」ということが絶え
ず問われているのであり、私たちが、受け入れるべきものと、拒否すべきもの
とを区別する基準もそこにある、ということです。

(この項、完)



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