2020年04月26日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第28回「ヨハネの黙示録3章18〜19節」
(16/1/3)(その1)
(承前)

 18「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわた
しから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、ま
た、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を
皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」

 ラオディキア教会への手紙の2回目です。
前回の振り返りが必要なところではありますが、ラオディキアという地の地理
的・社会的状況などについては、一切省略して、ここでラオディキア教会の教
会員の信仰について言われていることのみ、振り返っておきましょう。
 ラオディキア教会の教会員の信仰については、「あなたは、冷たくもなく熱
くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たく
もなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」
と言われていました。
 私自身もそうですけれども、多くの人は「熱い」「冷たい」「生ぬるい」と
いう言葉を「熱心さ」に関わる評価と受け取り、「信仰における熱心さ」が足
りない、という意味に受取ってきました。しかしながら、そうだとすると、
「冷たい」が、「生ぬるい」よりも評価されることの説明がつきません。
 そこで、原語を調べてみますと、「熱い」「冷たい」「生ぬるい」は、態度
のことではなく、実際の温度のことを言っているらしいことが明らかとなった
のです。
 つまり、ここで問題となっているのは、信仰そのものではなく、その信仰に
よってなされる個々の業のことであり、すべき業については、「熱く取り組み」、
すべきではない業については、「冷たくあしらえ」ということを言っているの
だ、ということであります。
 よって「生ぬるい」がなぜいけないか、が明らかであります。すべき業につ
いても中途半端にしかなさず、すべきではない業についても、きちんと拒否し
ないからであります。
 よって、この人の信仰については、「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち
足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れ
な者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」つ
まり、何でもかんでも受け入れて、受け入れたつもりになって、実は、信仰生
活で身に着けていなければならないことがきちんと身についていない、ゆえに
だめだ、ということに成るのであります。
 そこで、今日は、それを受けて、実践的な勧めがなされる段取りになってい
ます。

18「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたし
から買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、
見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」

 内容に入る前に、「勧める」という言葉に注目してみましょう。
私たちの日常の語法では、「勧める」とは、「よいと思われることを、説得し
てさせる」ことを意味します。命令ではありません。新約聖書の時代も、「勧
める」という語はそういう意味でして、原語は「パラカレオー」という語です
が、今で言う説教のことをこう言いました。ローマの信徒への手紙12章6節以
下には、当時の教会の役割分担が記されています。そして、その中に「勧める
人」というのがいまして、これが「説教者」のようなのです。
 ところが、黙示録3:18は、「勧める」と、訳されていますが、原語は「パ
ラカレオー」ではないのですね。「スュムボーレオー」という語です。
 この語は、新約聖書では2回しか使われていない語で、意味の特定が難しい
のですけれども、「勧める」というよりは、「忠告する」、説得するよりは、
ほとんど「命令する」、という意味合いが強い語なのです。
 で、イエス様は、決して「スュムボーレオー」されることはありませんで、
もうひとつの用例、ヨハネによる福音書18:14は、捕えられたイエスの処遇に
ついて、大祭司カイアファが出した忠告、というか指示でした。
 よって、ここで、黙示録3:18で、天上のイエスは、地上のイエス時代には、
なされたことのない忠告、というか指示を出されたというのが、18節なので
す。

(この項、続く)



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