2020年04月12日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第27回「ヨハネの黙示録3章14〜17節」
(15/12/27)(その1)


14〜17節「ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである
方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のようにいわ
れる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くも
ない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもな
く、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなた
は、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言って
いるが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であ
ることが分かっていない。」 

 いよいよ7つの教会の7番目の教会、最後の教会、ラオディキアの教会への手
紙に入ってまいりました。
 7つの教会を振り返ってみますと、いろいろな教会がありました。エフェソ、
ペルガモンのように土着の強い信仰があったため、信仰を守り抜くことに困難
を覚える教会もありました。
 ティアティラのように、格別に自由な風土の中で宗教の自由化(世俗化)が
進んでいた教会もありました。
 さらには、スミルナのようにユダヤ人と権力者が結びつく、という特別の悪
条件の下で迫害が起こった教会もありました。
 そして、以上4つの教会で、7つの教会、当時の教会が抱えていた問題点が
出尽くしたところで、サルディスの教会とフィラデルフィアの教会が、当時の
教会画抱えていた問題点を2つに集約してくれていました。
 サルディスの教会は典型的に平和な教会で、しかし、その中で、ニコライ派、
時代の雰囲気の影響もあったとは思いますが、「自分はもう救われてしまった
のだから、何をしても大丈夫だ」という傲慢な思いにとらわれてしまっていた、
ということ。
 一方、フィラデルフィアの教会は、7つの教会の中では、スミルナの教会と
並んで少数派に入りますが、実際に迫害が起こり、死者が出、ヒュポメネー(忍
耐)が必要なくらいに厳しい状況下に置かれた、ということです。
 フィラデルフィアの教会の教会員に、他の教会への慰めには見られない究極
の慰め、み国の姿のちらっと見、新しいエルサレムの紹介までしている、とい
うことは、時代の流れが、そちらの方へ、迫害の方へ進んでいる、ということ
である、と思われますが、他の教会については、一見の平和の中で、傲慢な信
仰態度を取っていると、迫害に対して、到底太刀打ちできませんよ、という警
告をなしている、と思われます。
 そして、今日の最後の教会、ラオディキアの教会が、どちらのタイプの教会
であるかが問題となります。一見平和で、実は傲慢な教会か、実際の迫害に苦
しんでいる教会か。
 皆さまどちらだと思われます?実は、前者。一見の平和の中で、傲慢な「信
仰生活」、しかもその「典型」の教会だったのです。
 7つの教会への手紙が、ラオディキアの教会宛の手紙で締めくくられている、
ということは、黙示録時代の教会が、実はカッコ付きの「平和」の中で、傲慢
の罪を犯しつつ過ごしており、そして、そのことが、実際の迫害において、耐
えられないですよ、という警告、いや、実際に耐えられなかった、という歴史
的事実を示しているのではないでしょうか。
 私たちの教会は微妙な位置にありますが、少なくとも、そういう傲慢な教会
に、2度と決して戻ることのないよう、心して歩んでまいりたいものだ、と思
います。
 さて、それでは、いつものように、ラオディキアという地の地理的・社会的
状況、そして、教会の抱えていた問題点から見ていくことといたしましょう。
 まず、ラオディキアの位置ですが、フィラデルフィアの南東70q、エフェソ
からすると、東方150qという位置にあります。今まで、各教会の間の距離は、
40qから50qという位置にありましたから、ちょっと遠い。しかし、15q先に
は、コロサイの信徒への手紙の宛先であるコロサイ教会のあるコロサイがあり
ましたから、教会は孤立はしていなかった、と言えます。
 で、この町は、エフェソからシリアへの幹線道路と、ペルガモンからアタリ
アへの幹線道路の交差点にあり、行政上、コンヴェントスの座、そして経済の
中心となってきました。銀行業が盛んであって、キケロがここで両替をした、
という記述もあります。また、羊毛業、と言っても、黒いウールのカーペット
産業ですが、の中心地でした。また、医学校があり、「ゼウキス(ゼウクシス)」
「アレクサンダー・フィラレクス」と言った有名な教授がいました。

(この項、続く)



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