2020年04月05日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第26回「ヨハネの黙示録3章11〜13節」
(15/12/13)(その2)
(承前)


 しかし、2:25については、実は、ここは接続法という時制が使われていて、
「行くことがあればそのときまで」、という意味でしたし、3:3についても、
該当箇所の時、説明しませんでしたが、ここも接続法で書かれていて、実は、
「行くか行かないか分からない状態」を表わしていました。警告だったのです。
 ところが、ここ、3:11においては、現在形ではっきりと「行く」と書かれ
ているのです。はっきり確かにある、イエスの到来、それが再臨なのです。
 それゆえ、ここから先に記されていることは、終末の出来事ということに成
ります。ヨハネが幻の中でのみ見ることが許された出来事として、私たちも心
して読んでまいりましょう。
 一旦10節に戻りますが、終末が来る前に、「地上に住む人々を試すため全世
界に来る試練」というものがあります。どのような試練なのか、私たちには分
かりませんが、黙示録の13章で記されていることがそれにあたるのかもしれま
せん。あるいは、17章にあるような、神の怒りの注ぎをさしているかもしれま
せん。
 地上の王の反逆、そして神の怒り、人々、というか我々は、この両方で苦し
まねばならないのです。
 だから、フィラデルフィア教会員は、「あなたの栄冠をだれにも奪われない
ように、持っているものを固く守りなさい。」と言われるのです。フィラデル
フィア教会員は既に栄冠を与えられてはいるのですが、終末の前に試練がもう
一度来るので、その時奪われたり、落としたりしないようにしなければなりま
せん。といっても、無理な注文、という気もしますが…。
 どうやって落とさないようにするかは、黙示録の後半で改めて学ぶとして、
ここは、仮にその試練を通過して、先へ進んだ時の話、イエス再臨後の話にな
ります。ここまで行けるといいですね。さて、それでは進んだ先はどのような
世界が待っているのか。

12節「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ
出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名とわたしの神の都、
すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、
わたしの新しい名を書き記そう。」

 もう、ほとんど天国といってよい世界ですが、どうも神殿があるようです。
しかも、それはエルサレム神殿のようです。黙示録、賢者ヨハネが見た天国の
イメージは神殿、それもエルサレム神殿だったのです。
 現実のエルサレム神殿も、マルコによる福音書講解説教の時にご紹介したよ
うに、実に立派なものでした。が、AD70年のユダヤ戦争で徹底的に破壊され
てから、今日に至るまで、2度と再建されることはありませんでした。
 絢爛豪華な神殿も悪くはありませんが、黙示録は、その現実にはなくなって
しまった神殿が、天国では再現されている、と言っているのでしょうか。ユダ
ヤ人にとっては、そういう願望を抱く向きもあるかもしれませんが、私たちク
リスチャンにとっては、その願いは一切ありません。イエスが、私が神殿であ
る、とおっしゃられたように、(ヨハネによる福音書2:21)イエスがおられ
ればそれで充分です。
 ではなぜ神殿なのか。
ここは大事なところでありまして、神殿のイメージは、クリスチャンにとって
は、「イエスが共にいる」いや、もう一歩踏み込みますと、「イエスのみ懐の
中にいる」ということではないか、と考えております。
 ゆえに、神殿の柱にされたり、額に神殿印を押されたとしても、神社の札と
は違うのです。
 そして、大切なことは、そのイエスのみ懐に憩いたい、私たちが切望するこ
となのではないでしょうか。
 結論としては、最も厳しい迫害に遭っている者は、この「神殿」に最も近い
ところに居させていただいておる、ということであります。

(この項、完)



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