2020年03月29日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第26回「ヨハネの黙示録3章11〜13節」
(15/12/13)(その1)

11〜13節「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、
持っているものを固く守りなさい。勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱に
しよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたし
の神の名とわたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新
しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。耳ある者は、
“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」

 フィラデルフィア教会への手紙の3回目、結論部分です。
前回は、フィラデルフィア教会にかなりひどい迫害があったに違いない、とい
う前提で話を進めてまいりました。
 先週お休みで、私の話を聞いていなくて、「書いてないのに、なぜそのよう
なことが言えるのか」という疑問を拭い去ることができない方もいらっしゃる
か、と思いますので、さわりの部分だけ繰り返させていただきます。問題は、
忍耐(ヒュポメネー)という言葉にあります。
 「忍耐(ヒュポメネー)」は、ローマの信徒への手紙5章3〜5節などでは、
クリスチャンのコの一つです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を
生む」のです。黙示録でも、1:9、2:2、2:3、2:19の忍耐は、その忍耐、
徳としての忍耐です。イエスの名を守るがゆえの忍耐です。
 しかし、黙示録後半では、耐えるは耐えるのだが、かなり厳しい状況で耐え
ることがこの言葉で示唆されています。13:10、14:12で、終末における、サタ
ンの最後の抵抗に対して、聖なる者がなさねばならない忍耐のことが言われて
いるのです。この「忍耐」の前に記されている出来事は、あまりにもおどろお
どろしい出来事であって、聖者の忍耐は、いかばかりのものなのか、想像もつ
きません。
 そこで、3:9の忍耐はどちらの忍耐なのか、ということが問題なのですが、
「苦難、忍耐、練達、希望」という形でセットで用いられているわけではあり
ませんので、質的には、後半に属するものです。フィラデルフィア教会はかな
り厳しい迫害体験をした、そして、フィラデルフィア教会と同じような、ユダ
ヤ人による迫害体験をし、10日間にわたって投獄され、死者が出たスミルナ教
会の場合でも、スミルナ教会員は「忍耐(ヒュポメネー)」をした、とは言われ
ていなかったことを鑑みて、スミルナ教会のケースよりも、もっと、どの程度
のもっとかは分かりませんけれども、厳しいものであったことが分かる、と結
論付けたのです。
 とは言え、まだ終末が来たわけではありません。位置的にも、3:9は
「1:9、2:2、2:3、2:19」のグループと「13:10、14:12」のグループと
の中間に位置しています。フィラデルフィア教会が体験した苦難は、終末の苦
難をほうふつとさせるものではあったとしても、まだ走りにしかすぎません。
 しかし、天上のイエスは、フィラデルフィア教会に終末の時の「保護の約束」
を与えているのです。
 今までも、各教会において、問題点を克服した人には約束が与えられていま
した。エフェソ教会は「命の木の実」、スミルナ教会は「命の冠」、ペルガモ
ン教会は「マンナと白い小石」、ティアティラ教会は「明けの明星」、サル
ディス教会は「白い衣」でした。そしてそれらは救いのしるし、約束でした。
が、それを持っていると、終末の時、どう役立つのか、は記されていません。
しかし、ここ、フィラデルフィア教会においては、「しるし」ではなく、終末
の時、フィラデルフィア教会員が実際にどのように処遇されるか、が記されて
いるのです。今までで、一番突っ込んだ、踏み込んだ救いの約束です。
今日は、その約束の「具体的内容」を見ていくこととなります。

まず11節、
「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持って
いるものを固く守りなさい。」

 まず、終末の時は、イエスの「セカンド・アドベント」と言いますが、再臨
から始まる、ということです。
 しかし、2:25にも3:3にも、イエスが「来る」とか「行く」とか言われて
いました。十字架にかかってよみがえられて、天に上られたはずのイエスが、
そうしょっちゅう降りてこられるのか、疑問に思った人も多いことでしょう。

(この項、続く)



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