2020年03月08日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第24回「ヨハネの黙示録3章7〜8節」
(15/11/29)(その2)

 ユダヤ人とどのような葛藤、抗争そして迫害があったかについては、次回以
降にテキストにもとづいて推測することといたしまして、この手紙には、今ま
での手紙と違って、すべての手紙と違って、最初に約束の根拠が述べられてい
ますので、今日は、そこを中心に見ていくことといたしましょう。
 約束の内容は、「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあな
たの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。」です。
 すでに学んだように、「行い」とは「信仰」の意味であり、フィラデルフィ
アの教会員の信仰が、天上のイエスのみ心に適うものであり、その者たちの前
に門は開かれている、というものです。なんとなく「いい話」だとは思うので
すが、「門」とは何なのか。そして、天上のイエスがそれを開いたり、閉じた
りする、とはどういうことなのか。確認する必要があります。
 まず、「門」についてですが、7節では、天上のイエスが「ダビデの鍵を持
つ方」と言われていました。
 「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉
じることなく、閉じると、だれも開けることがない。」
 「ダビデの鍵」とは何でしょうか。
この箇所自身は旧約聖書の引用ではありませんが、イザヤ書22:20以下にもと
づいています。ダビデ王自身よりはずっと後のことですが、神が、ユダの王ヒ
ゼキヤの臣下ヒルキヤの子ヒルヤキムを神殿の長官へ任命する、という託宣の
中で、「王宮を管理させる」との意味で、「わたしは彼の肩に、ダビデの家の
鍵を置く」と宣言したのでした。
 つまり、ここで天上のイエスはフィラデルフィア教会員にダビデ家の再興の
権限を与える、と言っているのです。
 もちろん、この門は「天国の門」であって、「ダビデの鍵」はその開け閉め
に使われる、とする解釈もあり、それは大変に有力です。
 しかし、私はあくまでも「天国の鍵」とは言われずに、「ダビデの鍵」と言
われていることにこだわりたい。
 「天国の鍵」は、もちろん、天上のイエスが開け閉めなさるのでしょうが、
その開け閉めの権限は既に、教会に、ペトロに委ねられているのです(マタイ
による福音書16:17〜)。
 こうして見て来ると、「ダビデの鍵」はあくまでも、「天国の鍵」と違って
イスラエルに対する支配権のことなのではないでしょうか。イスラエルは神に
選ばれた民として、特権を享受してきました。しかしながら、今や、イスラエ
ルの支配権そのものも、異邦の民と言われた人々、しかしてイエスを信じる
人々に委ねられる、とのメッセージがここには込められている、と私は思うの
です。
 ここで天上のイエスが言われることは真実、つまり、神の言葉そのものです。
かつてローマの信徒への手紙3章の釈義で申し上げましたけれども、神を旧約
聖書では「アーマン」である方、とお呼びしてきました。「アーマン」は
「アーメン」の語源ですが、「信じる」という語の持つ「信用する」「信頼
する」「信じる」の3つの意味、をすべて含む語です。神はそのすべてを兼ね
備えた方です。
 ところがギリシア語には、「アーマン」のような「便利な」言葉がありませ
ん。そこで、パウロもそうですが、「アレーセイア(真理)」という語に「ピス
トゥス(信じるに足る)」「ハギオス(聖なる)」といつた語を重ね合わせて、
 「アーマン」という語の代用としたのです。
ですから、ここは(「聖なる方、真実な方」)という表現は、「アーマン」な
る神という意味です。
 その神と性質を同じくされる天上のイエスの言われることであるからして、
この約束は確かなものである、とい前提を持って、これから、フィラデルフィ
ア教会の苦難と約束が述べられてまいります。
 私たちの教会も苦難を体験した教会である、とはっきりと定義できます。私
たちの教会にも、やがての天国のことだけではなく、大きな使命への道が開か
れているに違いない、と私は思います。そのことを覚え、今日の御言葉の解き
明かしを閉じたい、と思います。

(この項、完)



(C)2001-2020 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.