2020年02月16日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第23回「ヨハネの黙示録3章5〜6節」
(15/11/22)(その1)

3:5〜6「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の
名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に
言い表す。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」

 サルディス教会への手紙の3回目、結論部分です。前回のところからすでに、
勧告に従った者への約束が述べられていたのですが、前回は「汚れた」の意味
について確かめておりましたので、約束の内容には入れませんでした。本日は、
本当に約束について触れてまいりましょう。
 しかし、その前に、前回までの振り返りも忘れずになしておく必要がありま
す。
 サルディス教会のメンバーは、天上のイエスから、「死んだ信仰」と決めつ
けられるような信仰の持ち主でした。
 それでは「死んだ信仰」とは何なのか。それは、サルディス教会の多くのメ
ンバーが「生きていると主張している」、すなわち「私は既に永遠の命を持っ
ている」と主張していた、そういう信仰だったのです。
 だとすると、どういうことになるでしょうか。クリスチャンは既に完全なの
だから、何をしてもかまわない、何をしてもゆるされる、ということになりま
す。まさに、傲慢そのものだったのです。
 それでは、サルディス教会の人々が、傲慢にして何をすることになったのか。
それを前回は、「汚れる」という語の意味の探求からうかがい知ることとなり
ました。
 サルディス教会の人が受けた「汚れ」は、旧約宗教で言う、「律法違反をし
て、罪を犯し、それで汚れている、という意味での「汚れ」ではありません。
「モリュノー」という語が使われており、異民族関連の汚れです。
 ユダヤ教との関連では、旧約続編の時代、旧約聖書以後、ユダヤは外国の軍
隊にたびたび侵入され、エルサレムの神殿や土地は、汚され(モリュノーされ)
ました。
 しかし、キリスト教の時代になると、「モリュノー」の意味も変わってきま
す。異教徒が、キリスト教会に侵入して荒らす、汚すといったことはありませ
ん。逆にキリスト教徒が、異教徒の行事、たぶん食事会でしょうが、それに参
加することが「モリュノー」である、と言われているのです。
なぜでしょうか。異邦人伝道の時代になり、ユダヤ教時代と違って、「異邦人
は、律法を知らないがゆえに、そ れだけで汚れている」などとは言われなく
なったのではありませんか(使徒言行録10章)。異教の食事会に出ること自体
は汚れではないのではありませんか。
 ところが、パウロは、Tコリント8:7で「ある人たちは、今までの偶像に
なじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉
だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。」と言っ
ているのです。
 食事会に出ること自体が問題なのではなく、食事会に出たクリスチャンが、
その肉が「偶像に献げられたものであることを知っていて意識して食べたとき
に、こころの中に『偶像追慕』の思いが生じてしまうこと」が「モリュノー」
の汚れなのです。
 「モリュノー」の汚れとは、律法違反ではなく、心が、二心状態になり、キ
リスト一筋からそれてしまう状態のことを言うのです。「神と富とに仕えるこ
とはできない」のであって、キリスト一筋に仕えていくことが求められている
のです。
 そうしますと、褒められるべき人とは、律法違反をしなかった人、そういう
意味で汚れていない人ではなく、自ら節制をし、異教の食事会を避け、キリス
ト一筋に歩んできた人、ということになる、と思われるのです。
 それを前提に、今日のお褒めの言葉、そして約束を読んで、サルディス教会
への手紙を終了することといたしましょう。
 「モリュノー」することなく、キリスト一筋に歩んできた人に対する約束の
第一は、「白い衣」を着せられる、ということです。まず、「白い衣」とは何
なのかから入ってまいりましょう。
 まずのまずですが、色について確認しておきましょう。「白い」の原語は、
「リューコス」で、もともとは光り輝く、という意味、明るさを表す単位
「ルックス」の語源です。新約聖書で26回用いられ、その中17回が黙示録であ
ることからして、もともと天国の光り輝くさまを表現する語であったことは
明々白々です。

(この項、続く)



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