2020年02月09日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第22回「ヨハネの黙示録3章4節」
(15/11/15)(その2)

 ところが、今日のテキストでは、この「死んでいる信仰」、「クリスチャン
は既に完全なのだから、何をしてもかまわない、何をしてもゆるされる、」と
いう信仰が「汚れている」と定義されていることが分かりました。一体どうし
て「死んでいる信仰」が「汚れている信仰」となるのか、まずそこのところを
確認しておきましょう。
 以前、2009年7月19日、マルコによる福音書1章40〜45節の講解説教におい
て、ユダヤ教の「清さ」の考え方について触れました。どの宗教でも、宗教的
に正しい状態を「清い」と言いますが、ユダヤ教の場合には、律法を守って、
ひたすら神に従っている状態が「清い」状態でした。逆に律法を破り、すなわ
ち罪を犯して神に背いた状態が「汚れた」状態でした。
 「汚れて」しまったら、どうしたらよいのでしょうか。ユダヤ教の場合には、
動物犠牲をもって清められます。レビ記1章から7章には、その犠牲の献げ方
が詳しく記されています。
 しかし、贖いの供え物を献げることでは清められない汚れが五つありました。
それが、「汚れた動物」、「出産にかかわる汚れ」、「漏出に関わる汚れ」、
「死体の汚れ(民数記19:11-22)」、そして「皮膚病の汚れ」です。これらの汚
れの場合、ひたすら自然治癒を待つ以外になかったのです。
 サルディス教会の、「死んでいる信仰」を持っていた人たちは、これらの
「汚れ」を持っていたのでしょうか。そうではありません。彼らは、異邦人で
あってユダヤ人ではありませんから、律法を守っていたわけではなく、律法違
反に問われることもなかったのです。それではいったい何なのか。
 実は、日本語に翻訳すると、同じ「汚れ」になってしまって大混乱するので
すが、3:4の「汚れ」は原語が全然違うし(モリュノー)、概念も全然違う
のです。
 それは、律法違反をして神に背いて、それで汚れている、という「汚れ」で
はなく、異民族が侵入して来て、土地や神殿が汚された時のその汚れのことな
のです。よって、この語は旧約聖書本文ではほとんど用いられることなく、旧
約続編、すなわち、旧約聖書以後の、ユダヤが外国の占領下に置かれた時の記
述に多く用いられた言葉でした。
 新約聖書では、福音書では一度も用いられていません。使徒言行録でも用い
られることはありませんでした。
 異邦人教会が設立され、今度は、ユダヤ教ではなく、教会が、キリスト教が
異教と接触するようになって初めて再登場することとなるのです。
 そのクリスチャンにとっての(モリュノー)の汚れとは何なのでしょうか。
それは、Tコリント8:7に明らかです。
 「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べ
る際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱
いために汚されるのです。」
 (モリュノー)の汚れは(モリュノー)の汚れでも、旧約続編の(モリュノー)
の汚れとは全然違うことにお気づきのことと思います。旧約続編においては、
異民族がユダヤに侵入して来て、ユダヤの土地や神殿を(モリュノー)したの
でした。
 しかし、コリントでは、異民族がキリスト教会に侵入して来て(モリュノー)
したわけではありません。
 逆にクリスチャンが、異教の宗教行事(たぶん食事)に乗り込んで行って
(モリュノー)したのです。
 異教の行事は(モリュノー)しました。しかし、自分自身は全く汚れていな
いつもりでした。しかし、その食べた肉は、異教の神に祈り献げられたもので
あることは知っていますから、自分の心の中に異教の神への思いが生じてきて
しまうのです。心の中が(モリュノー)の汚れに染まったのです。これがクリ
スチャンの(モリュノー)なのです
 もう明らかなとおり、サルディス教会の「死んでいる信仰」を持った人々は、
「クリスチャンは既に完全なのだから、何をしてもかまわない、何をしてもゆ
るされる」ということで、異教に関わる何か、たぶん食事に関わったのでしょう。
大丈夫のつまりでした。しかし、心の中には、異教の神への思いが、
(モリュノー)の汚れが広まって行っていたのです。
 人は心の中に二つの神を持つことはできません。キリスト教における
(モリュノー)の汚れとは、心が、いつの間にかイエスから離れてしまうこと
を言うのです。
 クリスチャンには、ひたすらイエスのみを見つめて歩む道が求められている
のではないでしょうか。

(この項、完)



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