2019年12月29日

〔使徒言行録連続講解説教〕

(15/10/4)(その2)

 それ(ら)に対して、「ギュネー」は、性差だけによる「女」の意味ではあり
ません。ですから、「女」という訳は適切ではありません。成人して、社会的
地位をそれなりに得た女性(「女」)のことを言います。
 当時の家父長制の社会の下では、結婚して、「妻」としての地位を得ること
が、成人した女性として信用を得る、ほとんど唯一の道でしたから、「ギュネー」
という語は、ほとんど、日本語で言うと「婦人」という意味を持ってきたので
す。20節は「婦人」と訳されるべきです。
 イゼベルなる人物は、結婚して社会的信用のある人物だったのです。(「女」
と訳すと、日本語ではほとんど「いかがわしい女」というニュアンスしか持ち
ません。)
 さて、この女性が「イゼベル」と呼ばれているのは、この「イゼベル」とい
う名は、もちろんニックネームです。この女性が行なってきた「行為」と関係
があります。それではこの女性はどのような「行為」をしてきたのでしょうか。
 20節(全体)には、この女性のしてきたことが、「悪意」をもって書き連ね
られておるのですが、したこと、教会員にさせたことは二つだけ、「みだらな
ことをさせたこと」と「偶像に献げた肉を食べさせた」ことでした。
 「みだらなこと」とは姦淫です。しかし、教会員の男性がこの女性と次々と
関係したかというと、それはほとんど考えにくい。それよりは、これは、ペル
ガモン教会のところで言ったので詳しくは触れませんが、旧新約聖書を通して、
「姦淫」とは、主なる神以外の神に心寄せることの象徴として用いられている
言葉なので、他の神々へ誘った、ということであろう、と思われます。
 そして「偶像に献げた肉を食べさせる」は、主なる神以外の神に心寄せるこ
とを象徴的に表す言葉です。が同時に、具体的です。これは、実際にあった事
なのではないでしょうか。
 ここで「イゼベル」というニックネームが関わってくるのですが、「イゼベ
ル」については、皆さまよく御存じのように、北王国イスラエル王アハブのと
ころに、フェニキアから嫁いできた王妃です。そして、彼女の(悪い)功績は、
何と言っても、イスラエルにバアル礼拝を導入してしまったことです。「姦淫」
の「女」であったわけでは全くありません。そしてバラムの場合と違って、後
の伝承において、(「姦淫」の「女」として)仕立て上げられていってしまった
わけでもありません。
 よって「イゼベル」は、教会員を他の神々の追慕に、具体的には、他の宗教
の会食に誘い込んだ人物だったのではないでしょうか。
 なぜ、彼女にそのようなことができたのか。それは、先のところへ戻ります
が、教会員から「あの人のしている事には注意した方がいいわよ」と注意を喚
起される人物ではなく、社会的地位のある、「婦人」として皆に尊敬される人
物であったからです。
 この後、「イゼベル」本人、信奉者たち、そして「イゼベル」の子、「イゼ
ベル」の子とは、教会の中で、「イゼベル」信者となってしまった人のことと
思われますが、に対する罰が触れられますが、それについては次回に回しまし
て、今日は、教会の中で、社会的地位のある、「婦人」として皆に尊敬される
人物、その人こそが、教会員を惑わす元凶となる、という驚くべき出来事が、
既に初代教会から起こっていたことを覚え、私たちも注意してまいりたい、と
思うものです。
 いつものように身近な出来事と照らし合わせて、この説教を閉じたい、と思
いますが、皆さま、「我こそは「イゼベル」である」とお思いの方、挙手を願
います。今、手を上げられた方は、実は全然心配ないですね。「私、「イゼベ
ル」なんかではないわ」と取り合わなかった方の方が、危ない。
 私たちは、実は、自分の信仰がそれていて、そして人にもそれを、影響力を
発揮してしまい、「隠れた「イゼベル」」となってしまうことを恐れる必要が
あるのではないでしょうか。
今日は、ここのところで閉じておきましょう。

(この項、完)



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