2019年12月22日
〔使徒言行録連続講解説教〕
(15/10/4)(その1)
いつものように、前回の振り返りから参りましょう。
私たちは、前回よりティアティラの教会宛の手紙を読んでおります。
ティアティラがどのような町であったのか、ティアティラの教会がどのような
教会であったのか、という点ですが、
ティアティラという町はそもそも、セレウコス1世が紀元前280年ごろ、アレ
クサンダー軍以来の軍人、その家族を住まわせるために建設された町、すなわ
ち軍都でした。軍都であるがゆえに、出身地は様々で、新しいものに寛容では
あるのですが、歴史と伝統はないのです。この軍都としての町の性格は、後々
まで尾を引くこととなりました。
セレウコス1世は、ユダヤ人に対しても寛容で、ユダヤ人を入植させ、この
地にシナゴグができた、と言われています。ディアスポラのユダヤ人の職業と
言えば商業ですから、この地にさまざまな職人が集まり、そしてそれを商う商
人が集まり、同業組合が発達していた、と言います。
このことは、聖書においても証明されます。使徒言行録16:14節、パウロの
初めてのギリシア本土での宣教において、フィリピで初めての改宗者として、
リディアという女性とその家族とが洗礼を受けました。このリディアは、ティ
アティラ市出身の紫布を扱う商人だったのです。
次に教会についてですが、黙示録以前に、黙示録以外にティアティラの教会
に関する記述は一切ありませんから、だれが、どのような伝道をして、この教
会が形成されたのか、は一切わかりません。まして、どのくらいの人数の教会
員がいたか、といったことについては全く不明です。しかし、新しいものへの
関心、進んで受け入れる風土を考えると、急速に発展したのではないでしょう
か。
しかし、その教会は、歴史と伝統意識の希薄な教会であったと考えられます。
それは、歴史と伝統の欠落というこの町の持つ弱点が、教会においても、表れ
て来てしまったのではないか、と言うことです。
この教会は、19節において、イエスから褒められております。私たちが予想
する以上に褒められています。歴史と伝統のない教会ですから、イエスの福音
がストレートに信徒のハートに入って行ったのでしょう。
しかし、歴史と伝統意識の希薄な教会ですから、良いものと悪いものとを見
分ける能力も欠落しており、悪いものも素直に受け入れ、今日触れます、イゼ
ベルの「活躍」を招いてしまったものと思われます。そこで、イゼベル問題に
入ってまいりましょう。
20〜23節「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼ
ベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、
わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉
を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行
いを悔い改めようとしない。見よ、わたしはこの女を床に伏させよう。この女
と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦
しみに遭わせよう。また、この女の子供たちも打ち殺そう。こうして、全教会
は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わた
しは、あなたがたが行なったことに応じて、一人一人に報いよう。」
まず、イゼベル問題を引き起こしたイゼベルという人物についてです。
この人物について、20節では「女(原語では「ギュネー」)としか記されてお
りません。
「ギュネー」とはどういう意味なのでしょうか。この物語を読むうえで大切
なことなので、丁寧に触れておきたい、と思います。
「性(セックス)」の違いということは、どこの文化においても、意識され
てきたことで、性差による言葉の区別をしてきました。日本語での「男」「女」
という言葉は、性差によって、そしてそれによってだけ人間を2つに分けてきた
語です。(本当は2つとはいえないのですが)
そしてそれにあたる語がギリシア語にあるか、と言いますとありまして、
「アルセーン」という語が性差による「男」を、そして「セールス」という語
が、性差による「女」を表わす語として用いられてきました。たとえば、ガラ
テヤ3:28に、キリストにあってはあらゆる「区別」が解消される、という意
味で、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の
者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて
一つだからです。」と記されていますが、ここでの「男」と「女」は、「アル
セーン」と「セールス」なのです。
(この項、続く)
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