2019年12月01日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第17回「ヨハネの黙示録2章16〜17節」
(15/9/20)(その2)

 その理由としては、2つの可能性しか考えられません。一つは、教会内の
「ニコライ派」の蔓延については、「ニコライ派」以外のまともな教会員にも
大いに責任があり、教会を正すためには、「ニコライ派」以外のまともな教会
員が悔い改めてしゃきっとして、「ニコライ派」追い出しに取り組むことが必
要である、という場合。
 もう一つは、教会内に「ニコライ派」があまりにも多く、「ニコライ派」を
追い出してしまったら、教会員がいなくなってしまうほどなので、「ニコライ
派」の人々の悔い改めが、教会存続のためにはどうしても必要である場合、で
す。
 これについては、明らかに、後者が文脈に合っています。イエスはこの後、
直ちにペルガモン教会へ行って、「わたしの口の剣でその者どもと戦」う体制
を整えています。すなわち、神学論争をして、屈服させる覚悟でいられるので
す。「ニコライ派」以外のまともな教会員が悔い改めてしゃきっとして、など
とのんびりしたことを言っておられない、そこら中、「ニコライ派」だらけと
いう教会の様子が窺われるのです。
 どうしてそのように教会中に「ニコライ派」が蔓延してしまったのでしょう
か。それは、(私の推論に立った上での話ですが)何と言っても医神「アスク
レピオス」の魅力です。人にとって、病からの癒しは、切に求める祈りの一つ、
いや第一と言っても過言ではないのではないでしょうか。
 たとえクリスチャンになったとしても、そこで新しいイエスの癒しが示され
たとしても、医神「アスクレピオス」への追慕は捨てがたいところがあり、し
かも、地元の神ですから、多くのクリスチャンが、心の中で二股をかけていた
のではないのでしょうか。そして、医神「アスクレピオス」にはっきりと訣別
した教会員アンティパスが殉教した際にも、アンティパスに心寄せるよりも、
医神「アスクレピオス」の方に人々は心を寄せさえしていたのです。
 さて、いよいよ、「口に剣を持った方」と「ニコライ派」との戦いが始まり
ます。これは、説得すなわち、「偶像礼拝をやめる」という結果を求める裁き
の形をとるに違いありません。
 よって「ニコライ派」の人々にとっては、「偶像礼拝をやめる」か「やめな
い」かの2つの選択肢しかありません。
 そして、17節に触れられている報酬は、明らかに、「偶像礼拝をやめた」す
なわち、医神「アスクレピオス」と訣別した者に与えられるものです。
 隠されていたマンナは、容易に解釈できます。14節で偶像礼拝が「偶像に献
げた肉を食べる」と象徴されているのに対し、神に徹底的に仕える者には、
「命のパン(ヨハネによる福音書6:35)」が与えられることが示されています。
 しかし、「白い小石」については、解釈が極めてむつかしい。しかし、同じ
く14節では、偶像礼拝が「みだらなこと」とたとえられ、しかもこの報酬が裁
判の結果与えられるものだとするなら、「無罪」いや「釈放」のしるしの小石
なのではないでしょうか。(ヨハネによる福音書8:1〜11参照)この戦いを
通して、もし悔い改めるならば、医神「アスクレピオス」に走っていた者にも、
断罪ではなく、無罪宣告が与えられるのです。
 ペルガモン教会のどうしようもない事態が、神の大いなる赦しを持って締め
くくられていることに、私たちは、大いなる畏れと感謝を持って受け止めたい、
と思います。
 私たちの元住吉教会紛争においては「全員がニコライ派」といった事態には
至りませんでした。「自覚した者」がいました。そのため、戦うことができた
のです。
 しかし、教会紛争の歴史を見ると、このペルガモン教会の場合のように、ほ
とんど全員が神に背く、といった事態も起こりうるのです。これは、テキスト
が少し先へいかないと分からないとですが、イエス御自身が武器を持って直接
教会に乗り込まれるケースはここだけです。ペルガモン教会は、七つの教会の
中で、最悪なのです。でも、だからと言って、乗り込んで行かれたイエスが、
いきなり全部滅ぼし尽くしてしまう、というのではなく、説得と悔い改めに努
めると言われます。
私たちは、そこに大いなる恵みと憐れみを覚えるものです。

(この項、完)



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