2019年11月17日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第16回「ヨハネの黙示録2章14〜15節
(15/9/13)(その2)

 そうすると、14節の後半、「バラムは、イスラエルの子らの前につまずきと
なるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べ
させ、みだらなことをさせるためだった。」は全然つながらなくなってしまう
のです。
 これはいったいどうしたことか。私も「いったいどうしたことか」と思うの
ですが、同じ民数記の31:16によると、多分同じバラムが、自国の、つまりモ
アブの女性たちを使ってイスラエルの人々を誘惑し、別の神々を拝ませたこと
に成っているのです。同じ人がこんなに違うことをするはずはありませんから、
「これは誹謗中傷だ」と私は思うのですが、バラムは、何とかわいそうにこの
誹謗中傷がもとで殺されてしまうのです。
 それ以後、ユダヤ教時代になると、バラムの悪いイメージがどんどん拡大し
て、「バラム」は、「人を偶像礼拝に誘う悪い人」とされてきました。イスラ
エルとモアブの関係悪化が背景にあったことと思われます。
 よって、黙示録の時代、「バラムの教え」と言えば、「人を偶像礼拝に誘う
悪い教え」の代名詞として用いられていたのであります。残念ながら、黙示録
の著者もこの「社会通念」から脱することなく、「バラムの教え」という語を
用いております。
 ペルガモンの教会員は、もちろん一部でしょうが、偶像礼拝に走っていた、
というのであります。
 14節の最後尾の部分、「それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだら
なことをさせるためだった。」は、これを文字通りにとりますと、ペルガモン
の教会員は、とんでもないことをしていたことになります。しかし、「彼らに
偶像に献げた肉を食べさせ、」については、Tコリント10章、また「みだらな
ことをさせる」については、ホセア書(全体)を参照してみますと、偶像礼拝
を象徴的に表現していることが分かります。これらの表現は特別の意味を持っ
ているのです。すなわち、ペルガモンの教会員は、一部の人が、別の神に心惹
かれていたのです。
 それでは、「彼ら」はどの神に、どのように心惹かれていたのでしょうか。
それが15節から分かるのです。

15節「同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがい
る。」

 「彼ら」は、エフェソ教会への手紙でも、「憎むべき相手」として登場して
きましたけれども、「ニコライ派」、と「自称」していました。
 どの「ニコライ」なのか。そして、なぜ「ニコライ」なのでしょうか。
私たちは、「ニコライ」と言えば、「セント・ニコラス」、「サンタ・クロース」
を思い出してしまいますが、聖書では、使徒6:5、エルサレム教会で、ヘレ
ニストとの融和のために、選ばれて使徒に次ぐ地位に就いた7人のひとり、
「アンティオキア出身の改宗者ニコラオ」しかいません。
 「改宗者」ということはギリシア人である、ということです。ここから、
「ニコライ」の名を冠したこのグループが、ギリシア文化に、ギリシアの宗教
に寛容なグループであった、と推測することも可能です。佐竹明氏はそのよう
に「推測」しています。
 この「推測」を前提に、ペルガモン教会の「ニコライ派」は、ギリシアのど
の神に心惹かれていたのでしょうか。ペルガモンの場合には、「アスクレピオ
ス」の神である可能性が高いと、これについては、私は「推測」しています。
 だとすると、アンティパスの殉教に際し、ペルガモン教会はアンティパスに
心寄せず、内紛を起こしていたばかりではなく、教会員仲間であるアンティパ
スを迫害し殺した「アスクレピオス」の神殿に、心寄せる者までいた、という
ことになります。
 非常に厳しい解釈かも知れません。しかし、元住吉教会紛争を体験した私と
しては、そのようにしか解釈できません。人の罪は、クリスチャンの罪はそこ
まで重いのです。

(この項、完)



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