2019年10月20日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第14回「ヨハネの黙示録2章10d〜11節
(15/8/30)(その2)
(承前)
それには、「見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込
もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。」の部分が
事後預言である、ということが大きなヒントになります。
スミルナの教会では、これから迫害が起こるかもしれないので、「みんな、
死ぬまで頑張ろうね。死んでも頑張ろうね。」と言われているのではない、と
いうことです。
そうではなくて、もうすでに迫害が起こってしまって、そして死者も出てし
まって、その上で、「生き残った人」に対してこの言葉が語られているのです。
「生き残った人」は、どのような心理状態にあるでしょうか。おびえていま
す。本当におびえています。しかし、イエスはそのような苦難の中で、「生き
る」ことを、勇気を持って生きることを勧めているのです。
日本語訳では分かりませんが、ここで「死」と訳されている語の原語は「サ
ナトス(死一般)」であって、殉死のことではありません。人が必ず迎える死
です。ですから、「死に至るまで忠実であれ。」とは、これから、死を迎える
ときまで、それが何年であるか、それは人によって、状況によって違うし分か
らないが、それまで、「幸せに生きなさい」という意味なのです。「忠実に」
と訳されている語は原語は「ピスティス」で、「信仰」「信頼」「神に対する
安心感」という意味なのです。
「生き残った人」、おびえていることと思います。でも、その人に与えられ
た課題は、「良く生きる」こと。そのために、権力者と戦う必要があるかもし
れません。しかし、そうでなくとも、自分なりに精いっぱい生きる、というこ
と、「生き残った人」だからこそ、それが求められているのではないでしょう
か。
ここで言う「勝利者」は殉教者のことだけではありません。殉教せざるを得
なかった人ばかりでなく、「生き残って」誠実に生き抜いたすべての人のこと
を指すのです。
「第二の死」とは、ユダヤ教から持ち込まれた考えで、新約聖書では黙示録
だけに採用されている考えです。(あと20:6,21:8)ユダヤ教文書によると、
これを乗り越えないと、永遠の命に入れないのです。しかし、11節に書かれて
いるように、永遠の命に入れるとされている者は勝利者であり、殉教者だけで
はありません。そのことは確認しておきたい、と思います。
私たちも、今生かされてあることを受け止め、良くいきたいものです。
(この項、完)
第15回「ヨハネの黙示録2章12〜13節
(15/9/6)(その1)
12〜13節「ペルガモンの教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持って
いる方が、次のように言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知って
いる。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり
守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたのとこ
ろで殺されたときでさえ、私に対する信仰を捨てなかった。」』」
ヨハネの黙示録の連続講解説教も、第三番目の教会への手紙に入ることとな
りました。ペルガモンの教会への手紙です。ペルガモンの地はどういう地なの
か、また、ペルガモンの教会はどのような問題を抱えていたのか、早速触れな
ければいけない所なのですが、その前に、これまでに触れて来たエフェソ、ス
ミルナの教会が抱えていた問題につて振り返っておきましょう。
まず、エフェソの教会ですが、エフェソの教会では分派争いがありました。
教師間の抗争です。この時、エフェソ教会は双方を徹底的に調べ上げ、片方を
「偽教師(「偽」とは、キリストに反する者との意味です)」として判断し、
放逐しました。そのことがイエスに褒められた教会です。
もちろん、長年にわたる内部紛争の結果、疲れが生じ、精神の、信仰のゆる
みがあったことも確かです。しかし、今後も、兄弟、教会員同士でも、異なっ
た教えを持つ者に対しては、厳しい姿勢をとり続けるように勧められていまし
た。
第二はスミルナの教会です。スミルナ教会には、ユダヤ教徒、異教徒そして
ローマ帝国の三者一体となった迫害が加えられました。大変な迫害です。教会
員の何人かは投獄され、死者が出たのです。さあ、どうしたらよいのでしょう
か。イエスは「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。」
と言われるのですが、では、どうしたらよいのでしょうか。勇気をもって、皆
が教会の維持のために殉死をすることが求められているのでしょうか。
(この項、続く)
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